瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(5)

 一昨日の続き。
 私にはどうも、未刊に終ったり、計画通り刊行されなかった本について、どのくらい進捗していたのか、内容を知る手懸りがないか、探って見たくなる癖があって、『紀伊の民話』のことは2年半前に『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――を読んだときに5月6日付(3)に引用した「作者の言葉」の印象的な記述から気になっていたのですが、前回5月7日付(4)に引用した講談社現代新書370『民話の世界』の「伐ってはならん竹」に気付いたことで、記事にしてみたと云う次第なのです。
 『民話の世界』では同じ章の2節め、114頁13行め~116頁10行め「天狗さまざま」に書かれている次の話(115頁3~11行め)も、同じ『紀伊の民話』準備のための採訪旅行での体験と察せられます。

 和歌山で木こりのおじいさんに聞いた天狗は姿もみせず、こうもり傘の上をプイプイプイと/渡ったという。その天狗は熊野の奥の栗山の医者どのに斬りつけられたが、刀のきっ先三寸手/前の小さな穴をくぐりぬけ、二度までのがれた。しかし三度目に斬られてしまった。すると虚/空から友天狗の声がした。「七十五なびき、つづこうか!」大台 原から請川の高山まで七十/五、山がある。その山をつなぐほど友天狗を集めようかと叫んだのである。
 この話を聞いてから私は和歌山県の地図と首っぴきで大台 原をさがした。ところが無い。/無いはずで大台 原は奈良県なのだ。なるほど天狗にとって県境などあろうはずはない。奈良/の大台 原から請川の高山まで山々は続いている。それを分けたのは人間である。私はひとり/赤面した。


 確かに、当時の和歌山県東牟婁郡本宮町高山(現、熊野市本宮町高山)から北北東へ、熊野川の本流の十津川と支流の北山川の分水嶺大峰山脈が連なり、大普賢岳から東南東へ、北山川の源流部と吉野川の源流部の分水嶺を辿ると大台ヶ原山に至ります。
 しかし「七十五靡」と云うのは大峯奥駈道の修行場のことで、熊野本宮大社から吉野山を経て吉野川左岸の柳の宿までで、大普賢岳から東に大きく外れる大台ヶ原を回ったりはしておりません。
 かつ、高山は熊野川の左岸に位置しておりますが、請川(筌川)すなわち大塔川は、高山の対岸である右岸で熊野川に合流しているのです。
 松谷氏が訪れた昭和34年(1959)秋には、高山も請川も同じ東牟婁郡本宮町(現、田辺市本宮町)に属しておりましたが、その3年前の昭和31年(1956)9月まで、請川は東牟婁郡請川村、高山は東牟婁郡敷屋村、すなわち高山は、請川とは熊野川で隔てられた別の地区で「請川の高山」などと云う呼称はそもそも有り得ないのです。――どうも松谷氏は、行動力には富んでいるのですが細かな土地勘は乏しいらしく、前回まで検討した「平家の旗竹」の話の舞台である元の請川村田代――「請川の田代」の印象から、近隣の高山のことも何となく「請川の高山」と思い込んでしまったらしいのです。
 それはともかく、5月4日付(1)に引いた『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――に収録された「一九六〇年度の太郎座/(総会資料)」に、「松谷、瀬川」の「出版関係での今年度の執筆予定」として「イ、「紀伊の民話」出版。「大和・伊勢の民話」の準備。」と、『紀伊の民話』に続いて『大和・伊勢の民話』を計画したのは、松谷氏のこの体験を踏まえて、紀伊と山続きの大和・伊勢*1を構想したらしく思われるのです。
 さて、この話ですが、詳しくは次の本に載っております。
松谷みよ子『現代民話考河童・天狗・神かくし』1985年8月16日 第1刷発行・定価 1,800円・立風書房・434頁・四六判上製本

 しかし、この本の記述も、どうも記憶に頼って、かつその記憶をきっちり確認せずに、作家としての筆の冴を見せながら書いてしまったようなところがあるようで、そのまま抜いて置くことが出来ません。よって次回、詳細に及ぶこととしましょう。(以下続稿)

*1:大台ヶ原山大和国吉野郡と伊勢国多気郡の境界に位置する。

日本の民話『紀伊の民話』(4)

 昨日の続き。――過去の記事を確認してから書き始めたら文体が敬体になってしまった。そういう気分なのでそのままにして置く。
 さて、昭和36年(1961)11月15~17日の「竜の子太郎」初演(砂防会館)時のパンフレットの松谷みよ子「作者の言葉」では、この「旗竹」の話の舞台について「熊野の山おく」としかしていなかったのですが、2020年3月28日付「飯盒池(8)」に取り上げた講談社現代新書370『民話の世界』を見るに、67~120頁「第二部―民話の魅力」の、113頁8行め~120頁7行め「6――妖怪と人間たち」の1節め(113頁9行め~114頁12行め)に、この話が取り上げられておりました。但し「龍の子太郎」執筆への影響などについては(そこを強調すべき文脈でなかったことから)なかったことになっております。

伐ってはならん竹
 私が民話の世界に魅かれることの一つに、神秘的な世界がある。どこがどういいのか、説明/してくれといわれても困る、そんな世界である。
 和歌山の奥の大塔川という川に沿*1った田代という村に行った時のことである。その村は平家/の落ち武者がかくれすんだ里だとかいって、小さな山一つがそっくり村になっている。そのま/【113】わりを川が流れ、そこへ行くには細い吊り橋一本が通い路だという心許*2なさだった。橋を渡る/と細い道が石を畳*3んであり、崖もまた石で畳み、それがみな苔むして自然と村へ入って行くよ/うになっている。いかにも隠れ里にふさわしいつくりだった。この村は、田畑あわせて六町五/反、このうち四町五反が水田で、代々牡牛七頭で耕した。戸数も十三戸ときまっていた。村の/中に機竹という竹林がある。旗竹ともいうそうだがいかにも平家らしい。
 この竹林の中に親竹というのがあって太さは一斗樽ほど、けっして伐*4ってはならんことにな/っていた。それを明治になって桶屋の和三郎が伐った。その時、牡牛七頭がいっせいに鳴いた/という。和三郎の一家はその年のうちに死に絶えたという。
 しんとした真昼どき、パーン、パーンと竹を伐る音、いっせいに首を振りあげて鳴いただろ/う牛。
 私はこの話が好きでならない、どこがと問われれば返事のしようがない。滅んで行く時代の/象徴的な姿なのだろうか。なんとも理屈ではいえないのだけれど、忘れ難いのである。


 この記述に拠って場所がはっきりします。「大塔川」に沿った「田代」は、当時の和歌山県東牟婁郡本宮町田代(現、田辺市本宮町田代)です。地理院地図を見るに熊野本宮大社から 4km ほど南南西、熊野川の支流、大塔川の右岸、標高 409mの山から北北西に開けた谷が「田代」です。県道は左岸に通じているので、現在は車道が通じていますが当時は大塔川を吊橋で渡って、徒歩で入るしかなかったのでしょう。
 北斜面の日陰の村かと云うとそうではなくて、左岸から見ると標高 57mの大塔川から 標高134mの「小さな山」の頂まで急な斜面になっているのですが、それを越えると「小さな山」の南南東側は標高 115m前後の盆地のようになっていて、航空写真で見てもよく日が当る緩斜面に集落と耕地が、それこそ「箱庭」のように開けております。対岸からは見えませんからちょっとした「隠れ里」と云うか、それこそ落人伝説の舞台となってもおかしくないような場所になっています。
 『民話の世界』では田代が大塔川に囲まれているように書いてありますがこれは記憶違いで大塔川に対してはむしろ凹んでおります。「小さな山」の左右にそれぞれ大塔川へ下る小さな谷があって、「小さな山」がちょっと島のようになっているのです。それから「竹林」が今もあるように書いていますが、ネット上では全く話題になっておりませんから「作者の言葉」の書き振りの通り現存しないのでしょう。
 しかし、どうして「田代」を訪ねようと思ったのでしょうか。それから『民話の世界』の記述ですと「田代」を訪ねた時期が分かりません。
 さて、この「平家の旗竹」の話ですが、江戸時代後期の地誌2つに見えております。ここではそれぞれ国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る活字本から抜いて置きましょう。
・和歌山縣神職取締所 編纂『紀伊風土記』第三輯(明治四十三年十二月十日印刷・明治四十三年十二月十五日發行・〈帝國/地方〉行政學會出版部(京都)・索引五+四四四+附録四〇三+三頁)
 紀州藩編纂の地誌『紀伊風土記』は天保十年(1839)成立。活字本は全5冊で第三輯一七一~一九二頁が卷之八十五「牟婁郡第十七」、一七四頁下段8行め「[田 代 村] 多志呂」と3行取りの見出し、以下この条の本文全部(9行め~一七五頁上段2行め)を抜いて置きましょう。

皆瀬川村の小名川湯の坤の方川を隔てゝ十町餘川の南にあ/り狭き谷の內に梯田ありて村居其四方を圍めり
◯竹口瀧
村の丑の方三町にあり懸瀉十間許
◯竹口藪
村の子の方二町許筌川の川岸にあり土俗平家の旗竹といひ/傳へて伐る事なし若是を伐る時は村中の牛悉鳴*5ゆとそ又是/【一七四下】を伐りて祟を受けし者四五人に及へりとそ竹數舊は八九本/許ありしに今僅かに三四本となる


高市志直 編著『紀伊國名所圖會 熊野篇』卷之二(昭和十三年十一月 六 日印刷・昭和十三年十一月十二日發行・高市伊兵衛・前付+五八丁)
 これは『紀伊國名所圖會』の編者高市志友(1751.正.七~1823.三.七)の遺稿として残された牟婁郡の部の未定稿約十巻を、五世の裔孫高市志直(1938歿)が校訂編集追補して卷之一(昭和十二年十月 十 八 日印刷・同   年十月二十四日發行・高市伊兵衛・前付+五一丁)を刊行、卷之二の刊行直前に病歿したため、友人の雲溪鈴木尚俊(1867.九.十~1945.5.9)が引き継いで卷之三・卷之四を刊行、完成させております。
 卷之二、二〇丁表8行め「竹 口 籔 田代村より二町ばかり北にあり」と2行取り、以下9行め~裏1行めの本文は1字下げ、句読点は原文では字間に収まっています。

村老云ふ、此の筌川の河岸に、平家の旗竹とて唐竹八十本ばかりあり、筍生/じて生ひ立つ時は、親竹は自然と枯るゝを常とす。若し此の竹を伐る時は、/田代村中の牛こと〴〵く吼ゆると傳ふ。先年この村に新左衛門と云へる/ありて、此の數竹を伐りしに、村中の牛吼へ、新左衛門等家族五人の者ども/は、三年の內に死失せて家もまた絕えたり。其の後和田村の新九郞、大野村/の九右衛門、同じく新藏等の三人は、伊勢講に當り酒造料の酒桶の輪竹に/用ひんと示しあはせ、この竹三本伐りし時も、村內の牛こと〴〵く吼へた/る由、此の九右衛門、新藏等も其の年死に失せ、殘る新九郞は其の翌年に死/失せけると云ふ。また當村にては牛孕む時は他村へ預ける風習ありと云/【二〇表】ふ。


 「筌川」は大塔川の古称でルビ「うけ」があります。和田村と大野村は大塔川の上流、現在の田辺市本宮町東和田と田辺市本宮町上大野で、田代・上大野・東和田とともに本宮町に併合されるまで東牟婁郡請川村でした。
 さて、松谷氏の書き振りですと「親竹」のみ「伐ってはならん」ことになっていたようですが、『紀伊風土記』及び『紀伊国名所図会』の記述だと特に親竹に限らないようです。かつ、松谷氏は「桶屋の和三郎」が「明治になって」初めて禁忌を犯し「一家‥‥死に絶えた」かのように書いていますが、実は江戸時代に既に田代村の「新左衛門」の一家が3年で死に失せていたのでした。(以下続稿)

*1:ルビ「そ 」。

*2:ルビ「こころもと」。

*3:ルビ「たた」。

*4:ルビ「 き 」。

*5:ルビ「ホ 」