Symposium of Phenomenal Resolution

昨日、INAX:GINZAで行われたシンポジウムにvideo係として参加してきました。これは『JA』70号「Phenomenal Resolution--Japanese Architects in their 30s/風景の解像力 30代建築家のオムニバス」との連動企画。
この日のレクチャラーは乾久美子さん、長谷川豪さん、平田晃久さん、石上純也さんでモデレーターは藤村龍至さん。
まずはJA編集長橋本さんの挨拶からスタート。「普通は展覧会がまずあって、それに伴って書籍が出るが、今回は雑誌があって展覧会があってシンポジウムという流れでなかなかめずらしいのではないか」と話す。なるほど。挨拶を聞きながら、これにblogや学生達も接続していったらなお面白いetc思いながらvideo動作をもう一度確認し、レコーダーをセットして、メモの準備・・・

トップバッターは乾久美子さん。
内容は主にJA紙面の作り方と展示の仕方について。
「メッセージが放たれているのか放たれていないのか曖昧な状態を作った」と話す。
JA紙面では、プログラムや規模、作風、アウトプットの仕方がバラバラなもの達を、ある視点で見るとお互いが似ているというものを“連歌”のように並べて、それによりバラバラさが放置されているがゆるいルールでつながっている状態を作ったという。
展示でも、プログラムや規模、作風、アウトプットの仕方がバラバラなもの達を,“事務所で使っている木の机”を展示台にして、それとの関係だけで(木の机に図面を貼り付ける、木の机を断面図に見立てる、木の机を模型の床にするetc)次元を揃えたという。
実際にJAや展示を見て、ひとつひとつはスタティックなのに少し距離を取って眺めるとファンタジックな世界が広がっていて、こういう乾さんの世界観は個人的にもかなり好きなのだが、確かにそういったあいまいな状態を実現するために実は極めて構築的に考えていたのが建築家らしいなと思った。
僕の大好きな本でピーターメンツェルという写真家の『地球家族』(建築家野沢正光氏も絶賛らしい)を思い出した。この本は世界各国の住居の前に持ち物を全部出させて、街並みと住居と持ち物と人々とを全部を一枚の写真に収めるというもの。取材の仕方やデザインは極めてスタティックで最小限だが、結果としてたち現れる紙面は極めてファンタジックで、“きめ”と“なり”の絶妙な関係があると思った。乾さんの今回の紙面や展示もこのバランスがなかなかうまくいっていたと思う。
最後に乾さんは過去8年間の振り返ると、建築に“表現ではなく表情を与える”ことをしてきたという。“表現”の主語はそれを設計する建築家だが、“表情”の主語はそれを持つ建築で、さらに受け手が読み取って初めて成立するからだという。“表現”は受け手の感覚を強制するが、“表情”は受け手の感覚に潜在的に訴えかける。そういったデリケートな身体と建築との関係を作ることを今までもこれからも考えていくという。表情を作るのに建築を設計しつづけ、さらにスタティックな形式やディテールから逃げない乾さんに建築家を志す自分はもちろん他の来場者もヒントを貰ったのではないでしょうか。


つづいて長谷川豪さん。
事務所を始めて3年半経って今までに3つの住宅が竣工し今は3つの住宅を設計中だという。
「ありふれたもの、誰でも知っているものから自然に考え始めたい。ありふれたものに緊張感を与えたい」と話す。そして常に“身体的スケール”と“環境的スケール”とを同時に考えているという。
例えば「埼玉の住宅」で、GL-350mmの床の周りにGLレベルで作りつけの椅子(身体的スケール)が廻っている部屋があるが、その椅子に座ると、まわりに数百メートルにわたって広がる畑(環境的スケール)へ身体が拡張されるように感じるという。
「森の中の住宅」では大きな切り妻ボリュームの中に小さな切り妻断面が機能に応じて配されているが、その中でキッチンの切り妻は高さ1800mmぐらい(身体的スケール)だが天井面には大きく開口があいており屋根の天窓まで屋根裏面と天井面が連続して屋根の大きさをそのまま感じられ巨大なレフ板のように働くので森の大きさをそのまま(環境的スケール)捉えられるという。
「五反田の住宅」では2棟のタワーボリュームが、らせん階段でつながれている。このらせん階段はボリュームの面から少し飛び出しており、ダイニングからリビングへ行くために階段を数段登る(身体的スケール)ときにも一気に視界が抜ける瞬間があるので、一度街へ出る(環境的スケール)ような体験をし、トイレへ行くだけでも身体は一度街へ投げ出される。
環境(都市、森、ランドスケープ)と建築と身体を、“スケール”を介することで、メタファーにとどまらずリアルに関係付けている。こういう設計は嘘がなく、ものすごく強度があって相当憧れている。
ただ環境と今言うならば都市、森、ランドスケープだけじゃなく情報空間についてももちろん考えなければならないんじゃないかと思い、レクチャー後に長谷川さんに話しかけてみた。この4月から長谷川さんが在籍していた塚本研究室に所属したことやg86として活動していることなどを話すと聞いているよと言われ笑、情報空間に興味を持つのはいいが、建築家として、それを建築的に捉えないといけないと逆に激励(説教)される。



つづいて平田晃久さん。
東京は総体として見ると生き物のように見え、これを単体の建築にも取り込みたいと言い、これをAnimatedというキーワードで説明する。
まずは“そら”“たね”“ひだ”について。
“そら”は「人間は空を見て考え、影響されるが、空は人間のことを考えない。そして空にはいろいろなものが互いに折り重なるようにして出来る秩序がある」。
“そら”をつくるには“たね”がいいと続ける。
“たね”には「内部と外部が同時にできるつくりかた」があるといい、
“たね”をつくるには“ひだ”がいいと続ける。
“ひだ”は「プランとかセクションで考えるのと違って、より立体的でより空間的に考えることができる。連続しているが見通せない空間が作れる」という。
この平田さんの説明を菊竹清訓さんの“か・かた・かたち”や塚本先生のヴォイドメタボリズムと重ねて聞き入る。
Animatedは複雑系やネットワーク理論にも通じるし、応用可能な方法論だと思うので個人的に熱くなる。
構造や諸室の関係を1次のひだ、2次のひだというように段階的に解いていて、映像を見ていて楽しかったが、建築のプロジェクトにおいて、ひだがもっと身体に直接的に結びついたらもっと面白くなりそうだなと思った。(椅子のプロジェクトでは身体と触れる部分と構造の部分で“ひだ率”が変えられて巧みにデザインされている。)世界中の建築家の中を探してもここまでひだを徹底的に使いこなしている人はいないだろう。
鏡の反射を利用した美容室のプロジェクト等、ひだ以外にも応用可能な原理を平田さんはたくさん考えているのでそれらのプロセスや位置づけについて興味を持った。


最後は石上純也さん。
「建築と同じスケール感の環境を建築と同じレベルで考える」と話す。
石上さんの話し方はいつも独特でどこが話し初めでどこが結論なのかいったりきたりしたりループしていたり特殊な位相を含んでいる。石上さんが作るものやドローイングも不思議な次元を持っていて、予条件である敷地が建築と同時に考えられていたり、敷地自身が空間的ボリュームを持っていたり、都市と建築が同時に考えられていたりetc。
「今までの都市とは別の次元で建築の集合を考えている」という。
毎回毎回、「成り立つ/崩壊する」、「機能がある/ない」、「使える/使えない」というようなどこか境界線ギリギリのところで戦っているように見える。
レクチャーを聴いていて、そこには一貫した確固たる理論や方法論は無いが、見たこともない新しいイメージは毎回確実に存在している。
応用可能性は極めて低いが、その代わりに建築界に定着してしまった前提をバッサリ切断してくれて、僕らの思考を遠くへ飛ばしてくれる。


ここで10分ほど休憩時間を挟み後半戦へ。


モデレーターの藤村龍至さんが流れを整理。
特に面白かったのは石上さんのプロジェクトや平田さんのAnimatedから引き出した“動的な形式性”というキーワード。
昔ある先輩から「建築は動かないことに美がある」と言われ、たしかにそうだが、なんで建築の思考に制限をかけるようなことを言うのか、その時は相当憤慨し(笑)、でも斬り返すことが出来なかった。
藤村さんもブログで4人のレクチャーを聞いて「グローバリゼーションによって顕在化した場所性や慣習の流動化という社会の問題と、情報技術によって可能になった動的な形式性という建築の問題をどう繋げるか」と書いているが、建築のつまらない前提がこのレクチャーをきっかけにいい具合にほぐれてくればもっと建築がおもしろくなっていくんじゃないかと思う。

最後にJA編集長橋本さんが“慣習評価性の零度”(だと思う)という話をした。「ある何かが“慣習化”して“あたりまえ”になったのは例えば実はたった2年前からかもしれない」から「“慣習”を外して建築を評価できるか」と話す。熱い。
そして藤村さんが企画の題名“Phenomenal Resolution”についてresolutionという言葉は技術的な言葉で且つ、能動的な響きを持っていると話し、今回は建築の限界について話すのではなく可能性について議論をできたと明るく締めた。