『審判』(フランツ・カフカ/岩波文庫)

審判 (岩波文庫)

審判 (岩波文庫)

 今回は、何故どんな裁判なのか分からないまま被告人として巻き込まれていく不条理法廷ミステリの紹介です。
(以下、長々と。)
 2009年から裁判員制度(→Wikipedia)がスタートします。一応うちはミステリ書評サイトなので法廷ミステリを紹介したいと常日頃思ってるのですが、なかなかいいのが思い当たりません。いや、ミステリとして面白いのはたくさんあります。ただ、裁判員制度との絡みということで考えると難しいものがあります。裁判という限定された舞台内で弁護人と検察官との主張がぶつかり合う法廷ミステリは、法律についての知識が必要になりますのでそれについての取材をしなければなりませんし独特の難しさがあることは確かです。もっとも、実際に発表されている法廷ミステリは、刑事訴訟法を始めとする裁判の一連の流れや「疑わしきは被告人の利益に」といった刑事裁判の原則などの要点をほぼ間違いなく押さえてくれているものばかりですので、そういった点は読者として心配することはないです。ないのですが、ただ、謎が解かれるまでの過程を楽しむ”ミステリ”というジャンルとしての性質上、結末があいまいなまま終わるということはまずなくて、真犯人が明らかになって一件落着というのがほとんどです。ところが、裁判員として裁判に関わる場合には、その被告人が有罪か無罪かを判断するのであり、他に真犯人がいるかどうかを考える必要はありません。その被告人が犯罪を犯したということが証拠上明らかであれば有罪と判断することになりますが、疑義があるのであれば無罪です。白黒ハッキリしない場合に無罪とすることが裁判員に求められる最も大切な仕事なのです。このような灰色の状態をうまく表現している法廷ミステリがあればなぁ、と思ってるのですが、ゲームの『逆転裁判』みたいに結論が鮮やかかつ明らかなものばかりで、真実が灰色状態な場合におけるストレスといったものを表現している良作にはなかなか出会えていないのが現状です。大岡昇平『事件(書評)』などはいい線行ってると思いますが、殺人行為としてのアウトラインには争いがないので迫真性に少々欠けるのは否めません。何か心当たりがある方がいらっしゃいましたらお教えいただければ幸いです。
 ということで、ミステリから離れたところに法廷ミステリを求めることになりましたが、そこで辿り着いたのが本書、カフカの『審判』です。何と言っても、有罪無罪どころかなぜ裁判に巻き込まれたのか? 何の裁判なのか? といった基本的なことから訳が分からないまま窮地に追い込まれていくという、すべてが灰色な作品なのです。アハハハハ。
 「そんなの小説として成立するの?」と思われるかもしれませんが、厳密には成立していません。なぜなら、未完のまま死んじゃったからです。カフカはその死に際していくつかの作品以外は破棄するように友人であるマックス・ブロードに言い残しましたが、ブロードはそれに背いて作品を発表しちゃいまして(よくやった!)、本書もそうした作品の一つに該当します。ですから、カフカがどういう意図で本書を書いたのかは永遠に謎ですし、だからこそ解釈の余地が多分にある作品だということになります。
 ということで私なりの読み方ですが、自分自身への不安・不条理を抱えながらも時を刻んでいく人生に対しての実感を、裁判の手続きになぞらえて描いたんじゃないか思います。その裏返しということにもなるでしょうが、被告でも検察官でも弁護士でも裁判官でもないまったくの第三者の視点から裁判を描こうとしたんじゃないかと思います。カフカは法学博士号を取得してますから(→wikipedia)法律に詳しいのは間違いなくて、そうした自らの知識を生かして描かれたものが本書であることは間違いありません。具体的な事件性があいまいなまま物語が進んでいきますのでどのような法的手続きがとられているのかもあいまいで、だからこそ固有の法制度に左右されない普遍性があります。「奴さんは法律を知らぬと白状しながら、同時に無罪だなんて言いはっているんだ」(p13〜14)、役人たちには民衆とのつながりが欠けているのだ。普通の中程度の訴訟に対してならば、彼らにもじゅうぶんのかまえができている。こういう裁判は、自ら軌道の上を転がってゆき、ときおり衝撃を加えてやりさえすれば、それでことがすむからだ。しかし、ひどく簡単な場合とか、あるいはとくにむつかしい場合になると、彼らはしばしば途方にくれてしまう。夜も昼もなくたえず法律に束縛されているため、人間関係というものに対する正しい感覚がないのだ。ところが、こういった場合にこそ、恐ろしく痛痒を感ずるのが、この人間関係に対する正しい感覚の欠如なのである。(p176)、「私の考えでは、ほんとうの無罪に持ってゆける力は、およそだれにもないのだと思います」(p224)、などなど含蓄のある言葉が逐一出てきますので、不条理なストーリーながらも理知的なところもあって侮れません。
 ただ、裁判を題材にしたものとして考えると、裁判官と弁護士、あるいは裁判に関わる役人といったところは手厚く描写されているのですが、刑事裁判において必ず登場する検事という大事な役割についての記述が少なくて、未完だから仕方ないのですが物足りないのは確かです。完成させて欲しかったなー(涙)。
 話は変わりますが、カフカといえば『さよなら絶望先生』を思い浮かべる人も多いかと予想されます。両者の芸風が近いと感じるのは私だけじゃないでしょう。特に本書の、不条理でありながらもピリッと風刺の効いたストーリー展開、何故か分からないけど複数の女性からアプローチを受けるところ(笑)など、ある程度意識していることは間違いないと思います。カフカ風浦可符香にあらず)は日記を書いてたらしく、それはおそらく『絶望先生』に近い絶望感にあふれてるんじゃないかと思うのですが、生憎どうすれば読めるのか分かりません。ひょっとしたら邦訳されたことがないのでしょうか? だったら無理ですが、何とか読んでみたいものです。
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