『濡れた魚』(フォルカー・クッチャー/創元推理文庫)

濡れた魚 上 (創元推理文庫)

濡れた魚 上 (創元推理文庫)

濡れた魚 下 (創元推理文庫)

濡れた魚 下 (創元推理文庫)

 本書は、1929年のベルリンを舞台とする警察小説です。
 主人公のゲレオン・ラートは、地方都市ケルンで起きたとある事件によってベルリンに流されることになり、風紀課に配属されるも馴染むことができず殺人課への配属を望んでやさぐれる日々。そんなある日、得体の知れないロシア人が彼の下宿に押しかけてくる。しかも、そのロシア人は数日後に無残な屍体となって発見される。ただ一人、その男の身元を探る手がかりをつかんでいるラートは、好機到来と独自の捜査に乗り出す。するとそこには、暗躍する地下組織、密かにベルリンに持ち込まれたとされる莫大な金塊といった大きな謎が浮かんでくる……。といったお話です。

 この世界はもうたががはずれているのだ。一九一九年の革命で、道徳的価値観が引っくり返り、一九二三年のインフレでものの価値が分からなくなった。警察にはもっとやるべきことがあるんじゃないだろうか。たとえば、平安と秩序を保つとか。人を殺したら裁かれると分からせるとか。殺人捜査をしていたときは、生き甲斐を感じた。だが風紀課ではどうだ。ポルノ写真が増えようと減ろうと、だれが気にするというのか。
(本書上巻p27より)

 本書は、第二次世界大戦への転換期となる時代を描く大河警察小説の一作目ですが、そうした時代背景をことさらに強調するような記述はなされてなくて、あくまでも警察小説としての威風を保っています。とはいえ、序盤から描かれている共産党員と保安警察との激しい対立と抗争は、時代の行く先を感じさせるのに充分です。そして、ナチ嫌いのノンポリで、父親は警視庁で兄は単身アメリカに渡っているというラートの家族関係は、このあとの時代の流れと対応して大きな意味を持ってくるはずです。

「そのとおりですね。事件がお蔵入りして、ファイルを閉じることになったときほど悔しいことはないです」
「ええ。でも仏陀の下では、たいていの魚は釣り上がるわよ。濡れた魚はそう多くないってこと」〈お城〉では迷宮入りした事件をそう呼んでいる。
(本書上巻p236より)

 本書のタイトルでもある「濡れた魚」は、迷宮入りとなった事件を表わす言葉です。いったいどのような事件が「濡れた魚」として描かれるのか。それは本書を読んでのお楽しみですが、なかなかに皮肉の利いたタイトルです。そんな事件ですが、様々な出来事がぐちゃぐちゃに発生すれば、主人公であるラートの心情もまた出世欲だったり功名心だったり保身だったり付き合い始めの女と会ってあんなことやこんなことしたかったりでぐちゃぐちゃです。なので、特に中盤はお世辞にも読みやすいとはいえません。ですが、それらがやがて伏線の回収とともに整理されていき、収まるべきところに収まっていく展開は読み応え充分です。
 ”1929年からはじまって一話完結で一年ずつ物語が進行し、1936年に大団円を迎える予定”(訳者あとがきより)とのことですので、今後の展開にも大いに期待したいシリーズです。