『チェコ人形アニメの巨匠たち』

 半分くらい寝てしまう。映画長距離リレーのアンカーがドキュメンタリーだとさすがにキツイ。
 と、言うわけで、本編後におまけで流れた人形劇アニメについて。

 では『リンゴのお姫様』。まずなによりも、お姫様を見つけて妃にしようとした若い王様が死ぬほどマヌケ。その間抜けさ加減と言えばパンツ一丁でお姫様とデートをしていてみすみす魔物にお姫様をさらわれる魔界村のアーサー並。お話は、お姫様に成り済まして妃に納まろうとするゾンビ顔の魔法使いと、その窮状を何度も何度も王様に知らせようとしては魔法使いの手下のカラスにボコボコにされるお姫様との攻防を延々と繰り返す話し。だいたい、お姫様と魔法使いが入れ替わった時点でそんな婚約なんてご破算にすればいいじゃんとか思うんだけど、執拗に婚約指輪を誇示する魔法使いの前に簡単に王様が引き下がるのは、チェコの感覚ではそんなに指輪の効力が絶対的なのかただ単に王様がヘタレすぎるだけなのかはよく解らない。いずれにせよ、この王様情けなさ過ぎて、この王様に治められている王国の行く末が心配になってしまう。対照的に、何度再起不能にされてもチャレンジして最後にリベンジをかます「リンゴのお姫様」のド根性振りが物凄く際立ってこれもまた可笑しい。

 次に『ゴーレム』。『リンゴの〜』で目は覚めたとは言え、ボケボケ頭にこれはやばいなぁ。街の建物、なに見てもその想像が迸るユダヤ人の爺さんの過去は問わないが、悲惨。後には「驚愕の表情のユダヤ人のおじいさん」と「粘土のように自由自在に変化する建物」が頭にこびり付いてどうしよう。

 

『チェチェンへ アレクサンドラの旅』

 神はバベルの塔を破壊すると共に、人間達に異なる言語を与え、人間達が再び習合して天に迫ることの無いように混乱を与えた。

 アレクサンドル・スフーロフは静かに語る、いつものように。
 チェチェン国内にあるロシア軍駐屯地へ向かう軍用列車。武装した兵士達と少し距離を置いて、明らかにこの場に場違いな一人の老婆が座る。目的地は、兵士達と同じく、チェチェン内にあるロシア軍駐屯地。この地に派兵され軍人として任務に勤しむ孫の招きによりこの地に降り立った老婆は、同じく同様に年老いた祖母を持つであろう孫と同世代の兵士達のマスコットの如き存在となる。駐屯地内、何処に行っても尊敬と歓待を受ける、好奇心旺盛な彼女の足は自然駐屯地のゲートの外に向かう。
 ここ、少なくともロシア人が大勢を占める駐屯地内と駐屯地から少し離れたカフカス人の住む町は同様にロシア語という同一の言語によって意志の疎通が可能である。ロシア人の老婆、それと彼女が町で出会ったカフカス人の老婆。同じ世代、同じ言葉。互いが持つ共通項を待つ2人は、戦地の臭いが色濃いこの地で、少しでも共通項が違えば彼女もまた憎悪の対象となりかねない、そんな景色と空気が広がるこの地で交流を広げる。ロシア人の彼女、アレクサンドラがここに来た目的は何なのか? それは、遠く故郷を離れてこの地に駐屯するロシア軍の兵卒達にも言えることである。ただ、少なくとも言えることはここに来た彼女とロシア軍の目的は恐らく異なるであろうということ。そして、その部分を共有できない彼女と軍人・・・その代表者としてこの映画では彼女に「一番近い」はずの彼女の愛しい孫を当てる事、とてつもなく残酷に見えてスフーロフ特有の全体を締めさせ利静けさによってその残酷さは感じさせない・・・はたとえ「言葉」「肉親」という共通項を持ってしても、根本で相通じない。「言葉が通じる」という神が恐れた最大の武器はここでは何ら効力を発揮しない。一方で、互いの疑問を解決させず、疑問のままで終わらすことが出来るのは、老婆と軍人が肉親にあるからに他ならない。
 例の如く、スフーロフは作中での悲劇に対して何の解決策も与えない。与えないままに彼女、アレクサンドラはこの地を去っていく。最愛の孫とは、彼女が列車に乗る少し前に、軍務に赴く彼を見送る形で、彼が再び帰ってくること期する形で、別れを遂げている。そんな彼女を見送るのは町で出会ったカフカス人の老婆である。別れの言葉は互いに通じるロシア語である。列車に乗り込むアレクサンドラ、やがて列車は走り出し少しずつその場を離れる。その時、カフカス人の老婆は列車が見えなくなるまで見送ることはしない。かといってその場を立ち去るわけではなく、列車の進行方向に背を向けて、うつむき加減でその場に立つ。アレクサンドラが孫とは相容れなかった部分で共通項見いだしたかに見えたカフカス人の老婆もまた、別の部分で思うことがあるのだろうか。この場合「言葉が通じる」という事実が大変残酷なように私には思えた。一方で、「理解できないこと」がそんなに重要な事実なのか、との思いももって、この映画は幕を閉じる。

『青函連絡船〜栄光の軌跡〜』

 おとうさん、こんなすごいえいが、どこでみれるの? それはね、船の科学館の外に浮いてる羊蹄丸の中でだよ。 うわ〜、いろんな社会奉仕に寄与しているだけじゃなく自前でこんな映画と場所を造れちゃうんだから競艇マネーってスゴイね! そうだよ、同じギャンブルでも儲けた金をどんどん祖国に流して地域にはビタ一文寄与しないパチンコとは大違いだろ。 うん!ぼく大きくなったらギャンブルは公営一本に絞るよ! はは、早く大きくなって国益に適う立派な大人になるんだぞ!

 さて、映画。実は面白い。タイトル通り、青函連絡、本州と北海道とを繋ぐ航路の歴史を、その前史からその終焉までを貴重な資料映像を流しながら2時間、まず、実はかなりの難所である津軽海峡を人・物共にいかに効率よく安全に運ぶかの技術の構築、それぞれの時代の最先端の技術を集めて作られた各種機材、そしてその存在自体が画期的、新造する毎に前代未聞の技術が伴われ、そこにあるというだけで先鋭的な船の姿は正直格好良い。
 と、ここまで観者を高揚させておいて登場する二つの悲惨な歴史的悲劇、一つは言うまでもなく空襲によって全滅の憂き目を見た戦時中の悲劇。「日本が誇る技術の粋が一瞬にして!」憤慨と共に嫌が応にも高まる愛国心。が、その前にしっかりと「戦時体制を支える大動脈」としての側面をこっそりと伝えてあるので、ここで簡単に釣られてしまう人は実生活に置いては気をつけた方がよい。
 もう一つはこれまた言うまでもない「洞爺丸事故」。事故の経過の解説に、事故直前の船内写真、そして事故後の悲惨な様子、「昔のニュースは思いっきり死体写していた」とかいうようなことは置いておいて、その後の海難審判によって確定した「人為的災害」と言う見地に対してやや乗組員を擁護するような視点で語られているのは印象に残る。確かに、「生き残り」の乗組員にとってみれば悔しい限りでしょう。
 そのような当時の証言も含めて、資料と共に貴重(と言うか面白かった)なのが、その実際に連絡船で働く人たちの様子と証言。運航ダイヤの関係上「港には55分間しか留まってない」ため、その55分間で荷下ろし、下船、貨車の引き上げから始まって、人員交代・点検・掃除を完璧にこなし更に行きの客と荷物の乗船を手早く行う様子は手際よすぎて凄すぎる、と言うか「航海4時間・寄港55分」というダイヤのスゴサに尽きる。で、その限られた中で行う「飾り毛布」という無駄の極致のような職人芸が大変粋。昔は余裕無い中にあえて余裕を作ろうとする日本人の遊び心があったんだな、と。
 当然の如く、船長始め船員の仕事ぶりもちゃんと取材。ただ、私的には同様に紹介された普段はあまり脚光を浴びない「タグボート」の方の仕事ぶりの渋さに惹かれた。
 そんなこんなで、青函連絡船の光と影を余すところ無く紹介して見せた後、遂に連絡船はその使命を終える最後の航海へと向かう。もう、連絡船に関してモノ・ヒトありとあらゆる関わりを見せられた挙げ句にこの悲しい別れ、たぶん幼い子供を連れた親子ならもう大感動してでろでろ涙なんか流すんだろうけど、ここにいるのは純真な親子連れと言うよりはどちらかと言うと英才教育を施そうとする親子連れの方が多い気がするので、素直にこの映画に感動することが出来ない事が残念だ、私含めたスレた大人へ。