「マイノリティ」は「弱者」なのか?

まずは上山さんの記事の引用から。

■ 「引きこもり=マイノリティ」?
僕は無造作に「引きこもりというマイノリティ」などと書いていたのですが、よかったのでしょうか。 つまり、たとえば「黒人」や「同性愛」などの生来の条件によって社会的少数者に追い込まれた場合は、「その条件を改変することは不可能」であり、「そもそも改変を望んでいない」。しかし「引きこもり」の場合は、カテゴリそのものが「可変的な状態像」に基づき、かつ「無能力ゆえに生じている苦痛」が根本であるため、「できればその状態を改善したい」わけです*1。――これを「マイノリティ」と呼んでいいのかどうか。 僕は「社会的に少数者で、弱い立場に置かれている」という意味で「マイノリティ」という言葉を使っていたのですが。

ここで上山さんは「マイノリティ」という言葉に引っ掛かっている。
実はオレも前々からこの言葉に何となく違和感を感じていた。・・・というよりはここで言っている「マイノリティ」の味方を自称している左翼的な思想が嫌だった、のだと今までは思っていた。しかしこの記事で引用されているある文章を見て、マイノリティという言葉のおかしさ、にやっと気づいた。


一般にマイノリティという言葉が使われる時のその意味は上山さんが言っているように「社会的に少数者で、弱い立場に置かれている」という文脈が多いとオレも思う。この記事での上山さんの結論は「結局よく分からない」というもので、その後この言葉が使われる時にはこの定義を採用しているようだ。そしてこの使い方に関してid:hikilinkさんもここの記事で、

(※些細なことだけど、上山さんの表現だとマイノリティ=弱者のように読めてしまう。強者のマイノリティだってたくさんいるのに。代わりに適切な用語はないものかと思う。とは言え、強者のマイノリティなんてそんなにいないし、問題化して困っているという話はほとんど聞かないので、マイノリティ=弱者のマイノリティという表現で構わないのだろう。このあたり難しい)

とやはり疑問を呈している。ここで重要なのは「強者のマイノリティだってたくさんいる」という指摘である。もっともその後にそれをちょっと否定してしまっているが・・・ここが凄く重要なポイントである。そう、マイノリティとは本来「強者」の事だったはずなんである。
そもそも左翼思想の基本は、

[ブルジョワジー(資本家)]VS[プロレタリアート(労働者)]
という構図だったんだから、つまりは

[少数の支配者(強者)]VS[多数の被支配者(弱者)]
になるわけだ。ここにこの問題のややこしさがあるようである。いったいいつから「少数の弱者」という概念が出来、左翼はその味方になったのだろうか?

まず少数の強者、という発想にはちゃんとした生物学的(科学的)な裏付けが「一応」ある。それはあの「食物連鎖」という考え方である。基本的な食物連鎖のピラミッドの構造では
草>草食動物>肉食動物
とピラミッドの上に行くほど数が少なくなっていく。食うものより食われるものの数の方が多くなくてはこのピラミッドは成り立たないわけで、ここでは「マイノリティとは強者である」と言っても特に矛盾はない。(ただその大きな例外がこのピラミッドの頂点に立つ人間なわけだが。)
そしておそらくはこの考え方が左翼思想を裏側から支えていて、それに対するアンチテーゼとして「少数の者が大きな利益を得ているのはおかしい」「最大多数の最大利益を考えるべき」となって、この辺からいわゆる「近代的な」色々な主義主張が出てきた、はず。
そういうわけだから「マイノリティは弱者である」というのは本当はかなりおかしい。で、これに気づいたキッカケが上山さんのところで引用されている文章だったのだが、

「マイノリティ」の定義は国際連合のレベルで長い間議論されましたが、今日も明確な合意に至っていないのが事実です。マイノリティとは、一言でいうと数の問題です。ある特定の社会に所在する個人を民族や宗教などで分類したとき、少数に属する人たちと考えれば間違いないはずでした。ところが国連レベルでは、数だけでマイノリティを定義できないという問題があります。特に南アフリカアパルトヘイト問題で、少数の白人が多数の有色人種を差別しました。

 
 女性の問題にしても、確かに女性は男性よりも多数ですが、歴史的に今日、女性は差別を受けています。女性はマジョリティで男性はマイノリティだという議論は、少なくとも国際人権法の立場から議論できません。マイノリティとは、特定の個人集団が享有する人権とその尊厳、アイデンティティを尊重するために用いられ、それを課題とする歴史があり、数だけで割り切れないのです。結局、マイノリティの定義を議論するのはやめることになりました。

上の部分でまずマイノリティとは元々数の問題だった、とはっきり明言している。ところがそこからの理屈が明らかにおかしい。

  • 少数の白人が多数の有色人種を差別していた、から数の問題とは言えない?

最初からマイノリティには強者、弱者などという「分類」は無かった。いやむしろどちらかといえば最初にあったのは「強者」という意味合いの方でここで言っているアパルトヘイトの構造は食物連鎖の話で言ったものと同じものであると思う。だから本来の結論は「やっぱりマイノリティの定義は中立で強者弱者という分類は成り立たなかった」というものになるはずである。そもそもこの文章のどこにも弱者などという規定はないのにいつの間にか「マイノリティは弱者」という前提が出来上がっていて、それに合致しないから「数で割り切れない」「議論はやめる」というのは本末転倒である。「何らかの理由」で強引に弱者と規定しようとして失敗した、という事をこの文章は物語っているようにオレには見えるがどうだろうか?まぁ相当アヤシい話だというのが分かったわけだ。

これはかなり重要な話だと思うがまとまらないので、とりあえずこの話は続く・・・