あさ

水島。
房総のあれといい、ちょっと離れた無人島っていっぱいあるのね。

当直明け。ねもい。
そろそろルンバ到着に備えなくては。
時間的しめきりがあると捗る。例えば昨日、当直に出掛ける寸前の30分、すごいバタバタっと片付けやった。いかにいままで、そのままほっておいてある事象が、部屋のなかにたくさんあることか。恐ろしいものである。まあまあ恐ろしい。恐怖心。新聞で呼んだ84歳男性独居も今度の免許の更新で更新できなかったらどうしようと書いていた。そのすぐあとに
「自転車を練習しよう」と書いてあった。
前向きでよろしい。

精算するなら生きてるうちだ。
週末、あちこち食べ歩きを行い、あと人の日記をあちこち読み、とくに老年の「生きていてもしかたない、天寿まで頑張れとか言われるの残酷だ、だったら体がうごくうちに自立型の死を選ぼうと思うのもありなんじゃないか」みたいなことを考えた。
自殺はどん底ではなくどん底からちょっとだけ這い上がったところで起こりやすいという。決断実行には体力がいる。
それを通りすぎた弱った状態が、とくになにもできず、ぶらぶらしていて、ぶわーっとしていて、子供帰りであったり、単なる我が儘がふえたり、まただだっ子であったり、あるいはすべてを拒否してみたり、
こういうのも認知症といっていいだろう。
そうした風になるとまたこれがフィジカルには問題ない場合かなり長生きするー周囲に世話する人がいれば。
この「世話する労働」を労働としてとらえないから問題になる。コストなのである。デイサービスの職員が重労働なのはわけわからんくなってる老人を安全に過ごさせるだけですごい負荷だってからだ。
ワケわからんで動き回るやつが危険じゃないわけあるか。幼児と同じだ。体重あるだけたち悪い。
オレでさえそのように思うのだから、初老くらいの理性ある老人が、自分の未来について考えたとき、死に方について自分で決めたいと思うのも無理ないんじゃなかろうか。いつまでも生きてるわけじゃない。
他人とのつながりとか、他人に感謝されるとか、あるいは自分が他人に感謝するとか、何らかの心の動きを伴う交流が、なくなってしまった場合、それはちゃんとした人間じゃなくなっちゃうということなんじゃないか。死ぬまでずっと仕事してたらいいんじゃないか。
となるとこのへんの老人の死ぬまでずっと田畑に出るスタイルは恵まれていることになる。まあ実際例は死ぬまでじゃないんだけど。