ショーペンハウアーによる悲劇論

 ワーグナーの創作にショーペンハウアーの哲学がいかに影響を与えたのか、ちょっと見直してみたくなったので、約20年ぶりに「意志と表象としての世界」第3巻をひもといてみると、やはり、かなり深いところで、影響を与えていることがわかる。単純に、表面的な話の解決の仕方として、意志の否定に救いをみるのかどうかということよりも、そこに至るまでの劇作や、作曲のありかたにおいてである。
 以下、まず、劇作について、手元にある西尾幹二氏訳のものから、ポイントを抜粋してみる。


第3巻第51節より 詩芸術についての節
 「悲劇は詩芸術の最高峰であるとみなされるべきであり、また現にそうみとめられている。・・意志は悲劇においてその客体性の最高の段階に達するが、その際、このうえなく完璧に展開し、恐ろしい姿で出現しているのは、意志の自己自身に対するこの抗争にほかならないのである。これは、人間の苦悩において出現しているのだが、これを招きよせるのは、一部には偶然と間違いであり、一部には人間性そのものである。偶然や間違いは、さながら世界の支配者であるかのように、その奸悪たるや、ほとんど故意と思われかねないほどだから、運命という人間に擬せられて登場するのである」
 これは、「我執」と「苦」を基本的な特徴とみる仏教的な世界認識にもつながる部分である。ショーペンハウアーは、偶然や間違いをさらに、その契機として入れている。トリスタンとイゾルデの第三幕には、マルケ王到着のあたりで、勘違いや間違いが、こういう事態をもたらしたと嘆く台詞があるし、こういう視点からも、劇作がなされているようにみえる。


 「認識の光明で意志を和らげる程度にもいろいろあ差があって、認識がだんだん進めば、しまいにはある若干数の人々において、苦悩そのものによって認識が浄められ昇華されてゆき、認識はもはや現象に惑わされず、すなわちマーヤーの面被に惑わされることなく、「個体化の原理」である現象の形式を見破って、「個体化の原理」に基づく利己心(エゴイズム)が、そのために遂に死滅してしまうような地点に到達するであろう」
 悲劇を描くことによって、あるいは見ることによって、その主人公の心に、あるいは観客に、なにが起きてゆくのか。ショーペンハウアーは、認識の浄化と、そこからのみ到達する逆転的な救済という可能性をみる。これはショーペンハウアーの仏教理解の中心点でもある。例えば、釈迦にとっては、「生老病死」そのものをみること、それを生きることに、悲劇をみたであろう。そこから仏教の試みは始まっている。仏教には、神や「仏」をあがめる所から始まっているわけではない、徹底的なリアリズムが原点にある。
 この辺りの考察と、アリストテレスの有名な「カタルシス」論との比較は価値があろう。ニーチェが「悲劇の誕生」でやっているのかもしれないが。


 「悲劇の取り扱い方について少し立ち入った点をいまひとつ述べることをお許しいただきたい。大きな不幸を描写するのは悲劇にのみ本質的なことである。ところで、詩人によって不幸が引き出される道筋にはじつにいろいろあって、これを3つの種概念にまとめることができようかと思う。


・第一の不幸
 一人の性格的人物が不幸の張本人となって、その人の悪意が並外れて大きく、有り得る限度の最極端と紙一重のところにまで達することによって起こる


  シェークスピア「オセロ」「ヴェニスの商人
  ソポクレス「アンティゴネ


・第二の不幸
 盲目的な運命によって、すなわち偶然と間違いによって起こる


  ソポクレス「オイデプス王」
  シェイクスピア「ロメオとジュリエット」
  ヴォルテール「タンクレド
  シラー「メッシーナ


・第三の不幸
 ただ、人と人との相互の位置、すなわち関係によって不幸がひき起こされることがあるのである。こうなると、不幸が起こるのに、途方もない間違いとか、未曽有の偶然とかは必要でないし、また、悪意にかけて人間性の限界にまで達しかねない性格的人物なども必要ではなくなってくる。むしろ、道徳的な見地からすれば、普通人であるような人物が、ごくざらにある事情の下で、互いに対立する位置におかれ、その立場上なんとも仕方がなく、相互にそれと知っていながらも、きわめて大きな災禍をつくりだしてしまうことがあるのである。しかも、この場合にはいずれか一方だけが不正であるということではないのだ。この最後の種類の不幸は、前の二種の不幸よりもずっと悲劇に適しているとわたしは思う。なぜなら、これがわれわれに見せてくれる最大の不幸は、なにか例外的なこととして起こるのでもなければ、珍しい状況や怪物的な人物によって引き起こされるものでもなく、普通の人の行いや性格から自然にまたごくかんたんに出てきて、ほとんど本質的なものとして出現し、まさにこのことによって、人生にこのような不幸のあることをわれわれに怖ろしいほどまざまざと感じさせるからである・・・しかしながら、この種の悲劇を上演するのがやはり一番むつかしいと思う


 ゲーテ初期戯曲「クラヴィーゴー」
 シラー「ヴァレンシュタイン」     」


 夏目漱石の「こころ」は、この第三の悲劇に属するのではないかと思う。確かに「こころ」も劇としては上演しにくいだろう。オペラにはとうていなるまいが、トリスタンとイゾルデ風に独白オペラに仕立てられるかもしれない。視点をかえると、ドイツナチズムに巻き込まれつつある一般人や、あるいは、現在の安倍政権の近隣国を逆なでしながら軍拡政策に巻き込まれてゆく一般人も、大きく見ると、この悲劇の中の住人であろうと思う。
 だいたいの悲劇には、あるいは、悲劇的展開をする現実には、と言てもいいかもしれないが、第一から第三までの性質が入り混じりつつ、ストーリーが展開してゆくといえる。どのポイントが、物語を駆動するキーポイントになるかであろう。