「一階部分の思想」ということ(1)

加藤典洋『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン)


会社のぼくのパソコンを買い換えることになった。
故障や迷惑メールなどで、使用中のパソコンにいいかげん疲れていたし、ぶん殴りたいという発作に襲われたことも一再ならずあったので、素直にうれしい。
ボーダーインクの心優しいみなさん、お心遣いありがとう。
というわけで、フィルダーやらファイルやらをチェックしたところ、
古いパソコンから引っ越してきたままのガラクタ原稿が一山出てきた。
たんなるメモから書きかけ原稿やほとんど完成稿に近いもの、
なかには紙媒体に掲載されたものもあった。
内容的には、あまりにも無惨すぎてただちに消去したいものから、
人前に出してもそれほど恥をかかずにすみそうなものまで、さまざま。
これから気ままに、比較的まとまりのあるものを手直ししたりして、
このブログにアップしていきます。

 9・11同時多発テロとそれに続くアメリカ軍によるアフガニスタン空爆に触れたあまたある文章の中で、加藤典洋の「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」は、数少ない、心に沁みる文章であった。加藤の文章が心に沁みたのは、理不尽で未曾有のできごとを前に、ともすれば無力感とやり切れなさにおし潰されそうになりながら、この世の凌ぎ方とでもいうべきものを考えさせられたからである。以下は、加藤の文章に触発されて、本書が出版されてそんなに時間が経っていないころ書いたものである。(このタイトルを書名とする本書が出版されたのは、奥付を見ると2002年5月で、アメリカ軍によるイラク攻撃前である)。
(追記:以上のまえがき的な文章も当時のものです。為念)


1.モフセン・マフマルバフのことば 
 加藤典洋はこの短い文章を、イランの映画監督モフセン・マフマルバフと、『悪魔の詩』を書いてイスラム教を冒涜したとして、時のイランの指導者ホメイニ師から死刑の宗教布告を出された小説家サルマン・ラシュディの文章を紹介することからはじめている。


 マフマルバフの文章は、9・11テロの半年前、当時のタリバン政府によるバーミヤンの石仏破壊が行われた直後に書かれたものである。はじめてアフガニスタンを訪れたモフセン・マフマルバフは、「戦禍、地雷、飢餓のすさまじさに驚」く。砂漠に取り残され、「世界中の誰にも知られることなく」死んでいくおびただしい難民の群れ、腹をすかせた子どもたちが何マイルも裸足で走り続ける姿。このような光景を目撃したモフセン・マフマルバフは、バーミヤンの石仏は人為的に破壊されたのではない、恥のために倒れたのだ、と書く。「アフガニスタンに対する無知の恥からだ。仏像の偉大さなど何の足しにもならないと知って倒れたのだ」と。


 沈痛きわまりないマフマルバフの文章を引用して、加藤はこう書いている。
「(マフマルバフの文章を読んで=評者)僕が感じたのは、アフガンの人々のことを自分は知らなかった。そこでどれだけの人がどんな苦しみの中にいるか知らなかった、そのことを知った時の、気の毒だ、という感じ──ふつうには同情といわれるような気持ちでしょうが、そういう言葉には言い換えられない、一種痛切な感じ──を、この人の言葉からなら、そのまま受けとれるという、奇妙な安堵感」を受けた、と。


 ふたつの言葉に注目したい。ひとつは「気の毒だ」という言葉、もうひとつは「この人の言葉からなら」という用語。
 ふだんのぼくなら、「気の毒だ」という言葉を目にしたり耳にすると、はげしく拒否反応をおこすところだが、この加藤の文章はすんなりと受け入れることができた。このようなことはめったにあることではない。「気の毒だ」を、ぼくは、この言葉の沖縄方言にあたる「チムグリサン(肝・苦しい)」とか「チムイチャサン(肝・痛い)」に置きかえて読んでいたのだった。


 「チムグリサン」「チムイチャサン」という沖縄方言は、ぼくの理解では、身体に根ざし、身体性を保存した言葉である。べつの言い方をすれば、身体の痛みと心の痛みが同一であるようなあるいは相互浸透しているような、生存感覚に根ざした言葉である。加藤の文脈での「気の毒だ」が「チムグリサン」「チムイチャサン」に置き換え可能な内実のものであるとすると、加藤はこの言葉を、本来の、もっともプリミチブな姿で表出したということになる。「同情」というとりすました高見からの言葉に置換不能なのはそのせいである。


 それゆえに、加藤がつづけて述べていることが、一見するとナイーブかつ浮き世離れしているようでいて、核心を衝いた言葉として、すっきりと胸に落ちたのだった。
 加藤はこう述べている。「気の毒だ」という気持ちは、「いまさまざまにある世界心情のうちの枢要な一つです。世界心情とはこの世界に住むどんな人にも通じる(はず──とそう思える──)共通分母をなす感情のことです」「これはある一つの社会の内部に生きる人々への共感に裏打ちされた感情で」、このような裏打ちがなければ、世界へのいかなる関与も無効である、と。


 ここから、加藤の年来の主張である「関係性の思考」へと論は展開する。「気の毒だ」という感情は内側のもので、それ自体では「だいたいは誤る」。テロリストの思想や心情の背後には世界の矛盾が控えていることは明らかだが、同時に「アメリカがこれらの問題に向き合うことなしに、もう世界は動かないというところまできている」。現状から出発して、世界を動かすためには、内側の目と外側の目を合わせもつことが、必須の条件である。加藤はそう述べている。


 「この人の言葉からなら」というのも味わい深い言葉だ。なぜ「この人の言葉」に素直になれて、「奇妙な安堵感」を覚えたのか。9・11テロに触れて書かれた文章に流れている「『反米』の口調、昔ながらの『左翼』的な世界観」に加藤が、違和感を覚えたからである。そして「この人」、すなわちマフマルバフの言葉は、加藤のいう「世界心情」を手放すことのない場所から発された、今では稀有としかいいようのない言葉であった。


 この世界は、分割的で、客観主義的な言葉でみちみちているが、「世界心情」とは、そのような作用がはたらく以前の、まるごとの心性である。加藤の言葉でいえば、「この世界に住むどんな人にも通じる(はず──とそう思える──)共通分母をなす感情」である。マフマルバフの、アフガニスタンで目撃した民衆にたいする反応も、そのようなまるごとの反応である。マフマルバフの思想が、世界分割のそのどちらにも属さないものであるがゆえに、加藤は「この人の言葉」を素直に受け入れたのである。