え、こだまの世界?

A day in the life of...?

捕鯨問題

今日の朝日新聞でも取り上げられ、話題になっている鯨の話。確かに考えさせられるところがあり、一見の価値がある。

大きな論点は二つあって、オーストラリアによる日本の捕鯨批判は、日本人に対する人種差別がその背景にあるという点と、日本の捕鯨を批判するなら、オーストラリアにおけるディンゴやカンガルーに対する扱いも批判すべきであるという点。

前者は確かめようがないし、「捕鯨が不正かどうか」を問題にしているところに「捕鯨を不正と主張するオーストラリア人は人種差別的かどうか」という問題を提起するのは、論点のすり替えのように思う。こういう議論の仕方は、いたずらにオーストラリア人の気持ちを逆撫でするだけの気がする*1

後者は一貫性の主張で、カンガルーやディンゴに対して(一部の)オーストラリア人がこのようにしているなら、鯨とカンガルーあるいはディンゴの扱いの違いを説明する必要があるだろう。他国の慣習を批判する前に自国の慣習を批判せよ、というわけだ。ただ、この主張は、「たしかにオーストラリアの慣習も間違っていると思う。これも改めるべく要求するので、日本の捕鯨もやめてほしい」という再反論に対してはまた別の答えを必要とするだろう。

*1:まあ、まさにそういう意図を持って行った戦略なのかもしれないが。

ドクサから知識へ

結論的には正しい信念かもしれないが、その根拠については、考えたことがないことを認めて、さまざまな問題についての信念を吟味してみなければならない。結論と根拠の両方が正しくなるように心がけよ。

技術革新による倫理的問題の克服

そういえば、年末の某研究会だったかどこかで、「倫理問題を技術で解決できるという考えはけしからん」というような一文を目にした気がする(記憶違いかも)。倫理的問題を技術で解決しようというのは、物事を金で解決しようというのと同じくらい卑しい発想だ、という文脈だった気がする(が、忘れた)。

なんとなく言わんとしていることはわかる気もする。しかし、わたしとしては、可能であればどんどん技術で解決してもらったらよいと思っている。技術が倫理的問題を作るときもあれば、技術が倫理的問題を解決することもある。ただ、技術的解決が原理的に不可能か(そういう場合があるとして)、あるいは少なくとも直ちには望めない場合、やはり倫理的問題を困難な決定によって解決しなければならないときもある。