DeSeanの日記 旦⊂(´-` )お茶ドゾー

2017-10-17

親の心子知らず

子育てしてて思うのですが。

親の影響って、どれくらいあるんでしょうねえ。

私の母親は、なんというか、損得をものすごく気にする人です。たとえばお中元で返ってきたものに対し、「これ、うちが送ったものより断然安いわ」とかそういうのを延々ブツブツ言うような性格。

私は子供心に、そういうのがものすごく嫌だった。みっともないなあと思ってた。

で、できるだけそういうのはしないように生きてきた。少なくとも主観的には。

これは、明らかに反面教師ですよね。

とはいえ、反面教師でいいんだ、むしろそれこそが親の役目だ、ともいえる。親のことをクソ食らえと思って家を飛び出すことこそが、大人への一歩だ、と。内田先生なんかがいってたことですね。

そんなこんなで、反面教師上等です。少なくとも私には似ないでほしい。色んな方面で。

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2017-10-13

ああ結婚式

先週末、教え子の結婚式に出てきました。

こういうのに出るたびに(学生には卒業する時「結婚式、席が空いてたらぜひ呼んで」といってます)思うのですが、「こいつら、シャバに出たなあ」と。

本人もだし、あるいは結婚式なら出席してる親族やら同僚やらもですが、「学校外」の人たちなんですよね。「社会の論理」で動いている人たち。

私だけが感じているのかもしれませんが、「学校」って、やっぱり独特の文化なのですよね。小中高大に共通する臭いがある。良くも悪くも。

私などはその学校文化にどっぷりと浸かっているし、また普段付き合うのもほとんどが学校文化の人間です。それが学校外の人達に会うと、なんかこう、気後れがする。うん、私だけなのでしょう。

で、学校内の姿しか見ていなかった「学生」が学校外に巣立ったあとの姿を見ると、憑き物が落ちたというか、肩の荷が下りたというか、そんな風に見えるです。


実際、先生になるならともかく、それ以外はいずれは学校から脱出するわけです。それが「普通の」姿。一方いつまでも学校から出られない私は置いてけぼり。

そんな哀しさと、あとはもちろん嬉しさが交じるのが、教え子の結婚式、というやつなのでした。

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2017-10-12

虫干し

家の南側に立ってた無人のボロアパートが取り壊されました。

すっかり見通しが良くなった。道路から丸見え。

ついでに日当たりもよくなりました。以前は午後にはしっかり塞がれていたのが、今は一日中カンカン照り。

おかげで、天気がいいと高知城まで見えるようになったですよ。距離的にはたしかに見えてもおかしくなかったのですが、今までは思いもよりませんでした。

これ、いろいろと寓話的ですね。古いものを一気に取り壊してしまえば、今まで見えなかったものが見えてくる。

とはいえ道路から丸見えなのはどうも。まあそこまで人通りの多い道路でもないので、我慢します。

あ、壊した後には家が建つらしいので、高知城を拝めるのもわずかな間、かもしれません。

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2017-10-11

教育の専門化

私は教育の専門化に入るのか。言葉の定義なんてその人次第でしょうが、まあ、入るのかもしれません。

もちろん、他の「先生」たちも。

で、「我々専門化の意見を聞かずに、勝手なこと決めるな」みたいにいう。

でもいつも思っていますが、ほとんどの「先生」は、自分のやったことの効果など、わかりませんよね。

たとえば私。自分が普段やっている教育活動が、学生にどれくらい役に立っているのか、ほとんどわかりません。

いや、わかるといえばわかりますよ。「受講者アンケートでいい結果が出た」とか「中国語テストの点がよかった」とか「いい卒論を書かせた」とか。

でもそれが、その学生のその後の人生に、どれくらい役に立ったのかは、ほぼわかりません。

そもそも、何をもって「役に立った」とするのかも、「神のみぞ知る」ですし。

「寝てるよりは授業聞いたほうが役に立つ」という程度なら、いいんです。でもさすがにそんなレベルではない。私の授業を聞くのと、バイト先で「社会勉強」しながらカネを稼ぐのと、どっちが役に立つのか。なかなか難しい問題です。

などということを最近は考えてます。考えるだけで、とくに何もしてませんが。

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2017-09-30

文学効用

たまに、二昔前ぐらいの本を読んでいると、大上段に振りかぶってるなあ、と思うことがよくあります。

つまりは、「人間、いかにあるべきか」を語っている。

私の業界の本もそうです。竹内好はもちろん、丸山昇とか、丸尾常喜とか、そういう方々の本には、たとえば魯迅を通して「人間はいかにあるべきか」を語るのが当然、といった雰囲気があるのですよね。

それが崩れたのはいつぐらいなんでしょうねえ。やっぱりポストモダンの影響なんでしょうか。いつのころからか、むしろそういうのはタブーとされるかのようになってきた。魯迅研究で分かるのは魯迅だけだぞ。人間の生き方なんて分かるわけねーじゃねえか。たかが文学研究者の分際で、「人間とは何か」なんて語ってんじゃねーぞ。

生き方なんて人それぞれ。いい生き方も人それぞれ。「こう生きろ」なんて他人にいえるわけがないし、いうべきでもない。

という相対化が広まってきた。

私も、かなりの程度、そう思います。

しかしじゃあ文学研究は文学研究やってりゃいいんだということで細かな作家の事跡とか何とかを調べるようになると、「他人」に訴えるものが何もないのですよね。魯迅はいついつこれをしました。はあそうですか。で終わり。「で、その研究とやらがオレと何の関係があるんだ?」で終わり。

このジレンマは、授業をやってると本当に思います。当時の時代背景を細かに解説して、「魯迅のこの作品にはこうした背景があるんです」といっても、学生はふうんそうですか、という顔。実際、授業後の感想でも、「当時の中国は大変だったんだな、と思いました」という他人事感。うん、そりゃまあ他人事だよな、と、やってる方も思います。

どうすりゃいいんでしょうね。やはりもう一度、「人間とは何か」に戻ったほうがいいのか。でもそれはそれで、今の世の中じゃ、自己啓発扱いされるでしょうし。

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