DeSeanの日記 旦⊂(´-` )お茶ドゾー

2017-03-16

折り合い

この季節、「4年間お世話になりました」と学生がチラホラやってくるわけですが、いつもながら、いろいろと考えるです。

学生−院生時代、ずっと勉強していたのは、好きなことでした。好きなことを好きなように勉強してた。それが面白かった。

教員になってそれを教える段になって、ふと気づいたのは「これ、面白いの、オレだけじゃね?」ということ。

オレが面白いことを他人が面白いと思うとは限りません。というか面白くない場合のほうが多いかもしれない。

そりゃそうです。世の中には星の数ほどの「趣味」があるわけです。カメラが好きな人もいれば、温泉が好きな人もいれば、サッカーが好きな人もいれば。赤の他人でそれが重なり合う可能性は決して低くはないですが、高くもない。

それと同様、中国文学のそれも狭く細い部分が好きなオレと好みが合う人など、そういません。ということに気づきました。


で、どうするかは、2つ。1つは、こっちを向こうに合わせる。教える領域をできるだけ広くとって、引っかかる人を少しでも多くするようにする。

もう1つは、向こうをこっちに合わせる。つまり、オレの分野を好きになってもらうよう、頑張る。

2つといいましたが、結局は1つですね。要は、こっちを変えるわけです。


……そして試行錯誤を続けて13年。実は今まで学生に「オレの授業、面白かった?」とは、聞けてないんですよね。回答が怖い。まあそりゃ本人を目の前に「つまんなかったっす」とは言えないでしょうが、それでも怖い。


とにもかくにも、卒業おめでとう!

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/sean97/20170316

2017-03-10

人が死ぬということ

ここのところ、取り憑かれたように、小説を読み続けています。

軽めのやつ。ジュブナイル小説といわれるやつ。

で、思うのですが、よくもまあ、次々に人が死んでいくなあ、と。

家族が死んだり、恋人が死んだり、友人が死んだり、自分が死んだり。物語が動くのは、たいていの場合、人が死ぬことによって、です。


現実では、むしろ人がどんどん死ななくなってきている。医療の発達とか、テクノロジーの発達で、死というものが身の回りからどんどん遠ざかっていっている。

考えてみれば、私もここ数年、お葬式って出てないですわ。周囲はみんな元気。いや、元気じゃなく病気して病院通いしてるけど、死んではいない。

であるから一層、死というものの持つ象徴的意味が、大きく見積もられるようになっているんですかね。


なお今のところのベストはこれ。帯に「あなたは絶対涙する」とありましたがほんとに涙しました。


トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/sean97/20170310

2017-03-08

大学色に染まる

この時期、キャンパス内を、4月から入学すると思われる「現高校生」が、家族と一緒に歩いていたりします。

その若者たちを見ていると、見事に、「非ー大学生」なんですよね。

年齢はせいぜい1歳程度しか違わないのに、明らかに「現大学生」とは違う。「大学生」という衣を身につけてない、といえばいいんでしょうか。

これ、どう評価すればいいんでしょうね。これから大学生になって、大人になっていくのだ、ともいえるし、大学生という衣を身につけさせられ、型にはめられていく、ともいえるし。

もちろん、「現高校生」がなんの型にもはまっていない、ということもないでしょう。現時点で「高校生」という衣を身につけているんだ、今からそれを「大学生」という衣に着替えるのだ、といえばそうなのでしょうし。

で、「高校生」の衣だったら「大学生」の衣の方がまだマシ、ともいえます。


とはいえ、生きるというのは、どうあがいても、何らかの衣を無理矢理にでも身につけさせられる、ということなんだなあと思い知らされ、春から浮かない気持ちになるのでした。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/sean97/20170308

2017-03-07

フィクション効用

何度も書いてますが、去年の四月から、学部内で、人文系から国際系へと異動しました。

それまで、ほぼ一貫してフィクションが研究・教育のテーマでした。フィクションが題材、ということにわたし自身はもちろん、学生も疑いを持つことなどありませんでした。

ところが国際系。学生の志向は圧倒的にノンフィクションなんですよね。フィクションをテーマにするって、なにそれ?という学生さんが、ほとんど。「中国の◯◯」を研究するなら、実地調査やアンケート、あるいはせめて研究書であって、フィクションを使う意味がわからない、といった風。

それはよくわかります。その通りなのです。フィクションはあくまでフィクションであり、「誰々の小説にこう書いてあった、だからこうなのだ」という論拠はいかにも危うい。

小説を研究するというのは一体なにを研究することなんだろう、という疑問を改めて突きつけられたのでした。四月から国際系の第1期ゼミ生を持つことになりますが、さて、なにしようか。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/sean97/20170307

2017-02-28

目的と手段

思うのですが、勉強って、目的と手段の、どっちなんですかね。

私は本来、手段だと思うのです。が、日本の場合、勉強自体を目的にしている人、結構いるんじゃないですかね。

大学の先生、特に人文系の先生なんて、最たるもの。「その勉強、何の役に立つんですか?」などと聞こうものなら烈火のごとく怒られ、「役に立つ勉強などという考え自体がなっとらん!」と叱られることでしょう。全員ではないにしろ、多くの先生には。

大学の先生に限らず、勉強を精神論で捉える人は、目的派なんでしょうね。「勉強の内容それ自体に意味はないかもしれないが、一生懸命頑張ったということが大事」的な意見は、やはり勉強すること自体が目的となっていると言っていいでしょう。

目的じゃダメというわけじゃないんです。ただ、手段的な側面も、考えておかねばならないと思うのです。

私自身は、「自分がいま勉強し、教えてること、何の役に立つかな」と考えるの、割と好きなんですよ。というか役に立つようなものにしか興味がないといったほうがいいか。勉強のための勉強、研究のための研究には、正直、興味がありません。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/sean97/20170228