DeSeanの日記 旦⊂(´-` )お茶ドゾー

2016-05-24

さよなら新しい講義

今日の授業、パワポが出なくて焦りました。

いつもdropboxを開いて見せているのですが、開けようとしたら「あなたのdropboxは古いバージョンなのでダウンロードが必要です」などと抜かしやがりました。さすがにダウンロードしてる時間はないので、研究室に戻って、デスクトップパソコンからUSBメモリに入れて、教室のパソコンに改めて落として、見せるという手間がかかりました。教室が研究室と同じ建物だったからまだよかったものの、10分は無駄にしました。

また、週末には放送大学の面接授業があったのですが、初日、DVDを見せようとしたら、音だけ流れて画面が映りません。

係りの方を呼んでいろいろ試したけどダメ。仕方なくパソコンで見せようとしたら今度はパソコンが新しすぎてプロジェクターへの出力ができないというハチャメチャぶり。なのでDVDは諦めてしゃべり倒しました。疲れた。

どうやらボタンを一つ押せばよかったらしく、次の日には解決しましたが。


こうしてみると、昔ながらのレジュメに黒板という授業が、一番しくじりがないのは、確かですね。パソコン系は、映らないという心配が、どうしてもある。

特に今のようにOSが頻繁にバージョンアップを繰り返してると、プロジェクターと合わないとか、しょっちゅう。


私もオールドスタイルに戻そうかな。でも一度パワポを使っちゃうと、板書なんか、面倒でできなくなっちゃったんですよね。

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2016-05-23

作家論の恐怖

次回の中国文学史、魯迅を取り上げます。

そのたびに思いますが、魯迅って、すごいんですよ。偉い。感心します。

で、今、とある日本の作家の作家論を読んでいるのですが、どうも今一つ。に感じる。

その論じ方が悪いというよりも、結局のところ、その作家自体が、まあ大したことのない人間なんですわ。

なので、あんまり感情移入できない。


そう考えると、作家論って、「作家を神格化する」ことで、初めて成り立つんじゃないかと。

「誰々は全身全霊を込めて、正義を訴えたのだ」みたいになって初めて、読む者の心に響く。

普通の人が普通の発言した、という作家論を読んでも、ふーん、べつに。で? で終わり。


これが、「その作家を取り上げる意味」にもつながるんでしょうかね。

昔は、「好きな作家をテーマにしろ」というのにむしろ反発を覚えていたのですが、最近、それがようやくわかってきました。


さて、好きな作家、誰にしようかな。

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2016-05-22

土曜日の意義

土曜日の存在意義って、激減しましたよね。

今やすっかり、「休み1号」(2号はもちろん日曜日)になり下がっています。

オレが子供のころ、土曜日って、独自の輝きを放っていたと思うのですよね。

半ドン。今やほぼ死語になっていますが、半分だけ学校に行くというのは、他の曜日はない異彩を放っておりました。

それが今や。「土曜日」の独自性は、ゼロになりました。ほとんどの人にとって、土曜と日曜、何にも違わないと思います。どちらも「休みの日」。つまらん。

存在意義について考えるとき、土曜日は独自性を失った失敗例として長く語り継がれるんじゃないでしょうか。この記事自体、日曜に書いてますし。

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2016-05-16

主観的には

いろいろ見ていて思うのは、多くの人は、「自分(のすること)は正しい」と思って行動しているんだな、ということ。

たまに自虐的な人もいますが、そういう人だって、心の奥底では、「自分は正しい」「そしてそれを他人に気づいてほしい」と思っている。

また、「こいつどうしようもないヤツだな」と思っても、そういう人だって、なにがしかの(屁)理屈はもっている。

私だってそう。すべてを、自分に都合よく考えています。


最近よく聞くのが、「結果的に不快感を与えてしまい、申し訳ない」という謝罪と、「そんなの謝罪になってない」という批判です。

これ、まずは「結果的にとか、余計なことをいわなきゃいいのに」と思うのですが、考えてみると、これが実状に近いんだろうなあと。

だって最初から不快感を与えようとしていたはずはないですもん。もしそうだとしたら、そっちのほうが問題です。

これってウケるだろうなあと思ってやって、ところが総すかん喰らったら、「結果として不快感を」という風に表現するのが、一番合ってるんじゃないでしょうか。


とはいえ重ね重ね、そういったら火に油を注ぐ結果になるのは目に見えてるのだから、普通に謝罪しとけばいいのに、とは思うのですが。

自分の誤りというのは、なかなか認められないもんだよな、とも思うところです。

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2016-05-09

属人性社会

世の中、多くのことにマニュアルができてきていますね。

「やり方」を調べようと思えば、たいていのことはネットに出てくる。「治し方」「直し方」「教え方」「作り方」「売り方」等々。

そうなると今度は、「誰が」それをやるのか、が問題になってくる。というか、そこしか問題にならない。


父の付き添いで、病院に行きます。

そこでの治療はというと、検査して、その結果を基に「じゃあこの薬を増やしましょう/減らしましょう」という。それだけ。

「なんだ、オレだってできそうじゃないか」と、不遜にも思ってしまいます。


そこでじゃあなにが名医とそうでないのかを分けるかというと、「患者との接し方」なんでしょうね。

優しく声をかけるか、ぶっきらぼうか、みたいなの。


教え方もそうです。大学はともかく、小中高だと、もうすでに「教え方マニュアル」がある。大学ももうすぐできるでしょう。

で、ふたたび、じゃあ何が「いい先生/悪い先生」を分けるかというと、これまた教員個人の性格(的なもの)。

同じマニュアルを使って教えても、生徒のハートを掴める人と、掴めない人と、学級崩壊を起こしてしまう人と。


なので今まで以上に「誰がやるか」が重視され、人間の「対人スキル」が重視されるようになってきていると。マニュアルがあるからこそ、「誰がやるか」が重視される/それしか重視されなくなる。


いいのか悪いのか。私にできるのは、愛想笑いを磨くことぐらい、のようです。

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