信頼できない語り手と狂気

大阪の旭屋書店で腰巻の若島正解説に惹かれてパトリック・マグロア(Patrick McGrath、マグローと呼びたいところだけれど)の『スパイダー』を買う。ナボコフ研究家の若島さんは最近『ロリータ』の新訳も出した尊敬する学者だ。アメリカ文学関係の同じ委員会に所属したことはあるがきちんと話した事は残念ながらない。英米の短編小説にも詳しく、アップダイクやチーバーの作品解釈もとても優れている。

さて『スパイダー』だが、面白かった。解説にもあるように「信頼できない語り手」による物語は最後で語り手自身の記憶にない事実が語り手(=主人公)と読み手を驚愕させる。

「信頼できない語り手」とは小説分析上の用語。読者は語り手の紡ぐ物語を信じて読み進めていくが。作品によっては語りが事実を隠す場合がある。あの有名なミステリーの大家A・Cの代表作もそうだ。しかしかの作品では、犯人である語り手は自分が読者を騙している事は自覚している。しかもミステリーの作法上、自分が犯人であること以外は極力フェアに語ろうとしているはずだ。

しかし『スパイダー』では語り手自身が母親を殺した事を意識していない。オイデプスの父親殺しのように幼いころに別れた父親をそれと知らずに殺してしまったのとも異なる。『スパイダー』における語りでは父親とその愛人が共謀して母親を殺した後、主人公は復讐として父親の愛人を殺す。25年後にある施設を出た主人公は過去を再構築しようとノートを綴る。しかし物語の最後において自分が殺したのは母親である事が判明する。

ミステリーのように読者が納得するような答えはない。25年前の15歳の主人公は酒飲みでふしだらな母親を母親と認めず殺してしまったのではないか。その後殺人を合理化するために、優しい母親像を作り上げ、その理想の母親を殺した父親の愛人(母親の理想と反対の人物像)を殺したという物語を作り上げる。

語り手の語る物語が信頼できず、しかも語り手が狂気に陥っていたとしたら読者は何を信ずればいいのだろうか。しかし父親の愛人を殺したと思い込んでいた主人公の心に読者は少しずつ共感しながら読んでいく。語りの内容の事実性が揺らぐのは、語り手の揺らぎを反映しているが、読者は狂気に犯されている語り手にどこか寄り添っている。つまり物語の事実性にではなく、登場人物をどこかで信頼していれば読者は納得するのではないだろうか。

物語を我々が読むのは作品世界や登場人物に世界のありようの真実を見るからで、我々は殺人を犯す事もなく、狂気に陥る事もないけれど、その心理を理解することができる。狂気や殺意は普通の人間心理の延長線上にあるからだ。小説が語る真実は極端な形で表された現実のメタファーなのだ。オイデプスの父親殺しは、息子の父親を乗り越えたいという願望のメタファーなのはご存じの通り。

この作品(原作1990年、翻訳2002年)が2003年にデヴィッド・クローネンバーグによって映画化された。狂気を描くにはうってつけの監督といえる。しかも主人公のデニス・クレッグにはレイフ・ファインズ、父親にはガブリエル・バーン、母親(または愛人)役にはミランダ・リチャードソンというイギリス、アイルランド人俳優によるすぐれたキャスティングは脚本も担当したマグロア(アイルランド系イギリス人、アメリカに移住)も満足したのではないだろうか。アマゾンでDVDを購入。

そんな訳で、研究的には少々中途半端な出張を意義あるものにできたのは、アートと読書と食べ物かな。今回はあまり人とは会わなかった。

ビフカツは美味しい

 以前銀座の「煉瓦亭」で食べたビ−フカツが美味しかった。
 一度本場大阪のビフカツを食べてみたいと思っていたのが、今回新梅田食堂街のお店で試してみた。

 「スエヒロ」という老舗のステーキ屋さんのような名前の、喫茶店のようなお店。カウンターに60代の、ウエートレスは50代の女性陣が頑張っている、でも厨房は若い男性が仕切っている。肉の大きさ、焼き加減、良かったです。ワインよりも日本酒が合いそうな洋食なので、生ビールの後は日本盛(300ml)を。

 ご近所の人や観光客、家族連れなどで賑わっていた。ビフカツ、近いうちにまた食べたい。