リベラル・アーツの有用性

 昨日は書店で時代の定点観測?のために3冊ほど雑誌を購入。ラインナップは『現代思想』(特集「オバマは何を変えるか」)、『中央公論』(特集「日本語は亡びるのか」)、『Esquire』(特集「もう一度、学校へ行こう」)。
 で「もう一度、学校へ行こう」の副題は「社会人よ、新しき”リベラル・アーツ”を身につけよう!」。リベラル・アーツとは自由な(リベラル)人がもつべき教養の事だ。その教養とは、弁論術だったり、天文学だったり、現代とはずいぶんと違う。またartも芸術ではなく、知識や技術の事。漱石がいう「高等遊民」が自由人かも知れない。奴隷的な身分ではなく、商人や職人でもなく、仕事のために生きなくてよい人間が身につけるべき事柄がリベラル・アーツ。
 特集の基調講義を書いた内田樹によれば、教育は消費社会の現代においては費用対効果としてとらえられるている。しかし学問とは、すぐに役に立つ、今すぐ利益に還元できるようなものと別な次元の、潜在的有用性をもつ物、それを予見する能力であるべきだ。僕は数年前の共通教育研究会の主催者としてその趣旨を作文した時に、今すぐ役に立たないかもしれないが、時間を積み重ねていく知のあり方の重要性を説いた。その意味で内田さんとほぼ同意見だが、結局は役に立つ立たないという観点から逃れられないのかなと、自己反省も含めて思う。
 たぶん役に立つという意味の厳密なとらえ方の違いに行きつくのだろう。役に立つとは、単に利益や自分の経済的・社会的なものを意味していないのは内田さんも同様だと思う。彼の言う生き延びるために予見する能力と言うのも理解できる。その意味での有用性。でも人間は単に生き延びるだけではなく、自分の動物的生存が確保できた後の豊かさのために必要なものがあると思う。それがリベラル・アーツであり教養であると。この二つの違いについては別に項を立てて。予告して反古にしてきた例は結構ありますが。
古典的なリベラル・アーツは文法・レトリック・論理の3学、算数・幾何・音楽・天文学の4学の計7つのジャンル。それでリュートを奏でたり、文を書いたりする7人の女性を描いたThe Seven liberal Artsの図像が高等教育の世界を表象するものだった(らしい)。