イーストウッドの神話性と予定調和

 『キネマ旬報』の5月上旬号は「イーストウッドは『神』じゃない」というタイトルの特集を組むのはいいとして、『ユリイカ』までが初めて彼の特集を組んだのを見て驚いた。長い間ハリウッドからも映画批評の世界からも決して十分に評価されていなかったイーストウッド映画に対して1992年の『許されざる者』からどうも潮目が変わってきたらしい。アカデミー賞も取ったし。
 そんな訳でこれまで不遇のイーストウッドを評価してきた小林信彦芝山幹郎などが映画作家としてのイーストウッドの神話化に意図せず?手を貸しているように思える。僕は天邪鬼だから評価が低い時は応援したくなるが、どうも現在のような風潮の時は神話解体の方向に動いてします。本当は冷静にぶれない評価が一番いいのだけれど。
 で『グラン・トリノ』を見てきました。ゆったりとした、でも停滞しない映画的な描写のスピードは、大家の風格だろう。特にエンディングはイーストウッドの自己批評性が出ていて興味深い。
 モン族という異文化との対立と調和、気弱な少年との師弟関係、襲いかかる暴力への逆襲、などイーストウッド的テーマの総ざらい的な印象もある。僕は年取ったダーティ・ハリーの決着の付け方を予想していたのだけれど、そこのところは脚本もうまく処理している。
 主人公の病気が伏線として少しづつ描写され、最後の殴りこみ?が実はある種の自殺になっている。死を覚悟した老人の次世代への贈り物としての行為がグラン・トリノという名車に象徴されているか。
 やたら銃を撃ちまくっていたガンマンと刑事の最後の決着のつけ方が、自己犠牲として死というのは予定調和を予想していたのが、肩すかしをくらったようで、少し動揺?し、少し感動した。