閉じ込められ/押し出されて

ヒップホップ論を書いている時に、アメリカの黒人が「閉じ込められてきた」事について書いた。つまりアフリカから誘拐されて奴隷船に閉じ込められて、アメリカにやって来てからは南部の大農園では奴隷小屋に閉じ込められ、奴隷解放後は都市のゲットーに閉じ込められた。さらには人種隔離の中で乗り物やレストラン、病院、学校でも黒人専用の場所に閉じ込められたのがアメリカの黒人の人たちだった。アメリカの都市のゲットーという名称が、ヨーロッパでユダヤ人が強制的に閉じ込められた場所を指す名称に由来するのは不思議ではない。「ゲットー」(ghetto)の語源については諸説あるらしいが、ヘブライ語の「分離」が語源としてはふさわしい。
 支配する白人キリスト教徒にとって好ましくない人たちを排除する構造は、パリではバンリューにも見られる。2011年8月24日のブログで『憎しみ』という映画と2005年のパリ郊外のバンリュ―での暴動を取り上げた。パリでは市内の高級アパルトマンに金持ちが住み、バンリュ―(=禁止された場所)と呼ばれる郊外は旧植民地からの移民(アルジェリアなどからのアラブ人、黒人)が住む低所得世帯用公営住宅団地を指すようになった。
 このヨーロッパの白人キリスト教の国に移住した親から生まれた若者たちは、母国から押し出されさらには生まれた国からも押し出されている。それは物理的に強制退去を命じられていなくても、十分な教育を受ける機会や望ましい仕事につく機会がないまま、社会から押し出されゲットーやスラムやバンリューに希望もなく閉じ込められて暮らしている状態の事だ。希望のない状態は、そのような境遇に追いやった制度や社会への憎しみに直結する事は容易に想像がつく。しかしその憎しみから生まれた怒りは様々な方法で発現するから対応は限りなく困難になる。ではどうすればいいのか。このような憎しみを生む構造をなくするか改善するしかない。それには神と人という縦の構造を持つ宗教ではなく、宗教を信ずる他者を重んじる意識が必要なのではないだろうか。様々な信仰やイデオロギーや肌の色を持つ他者を受け入れるような教育が必要な気がする。