真の自由を獲得するための勉強法

千葉(2017)は、フランス現代思想分析哲学など複数の現代思想をベースにした「勉強論」を展開している。とりわけ前半は、言語論をベースに、私たちが受けている束縛を打ち破り、今より多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるための勉強法を論じている。すなわち、真の自由を獲得するための勉強法である。千葉の解説を私なりに理解すると以下のようなことになろう。


まず重要なのは、この世界は「言語」が編みあがったものとしてでできていることである。千葉の言葉を借りれば、私たちは「言語によって構築された現実」を生きている。人々の社会的相互作用によって言語が編みあがってできた世界すなわち(世界=言語)が、一般知識や社会構造や権力の基盤となり、私たちの動きをコントロールし束縛している。「わたし」そのものも、他との関係性を示す言語的世界によって構築されている。その中で、私たちは特に意識していなくても、あるいは意識していないからこそ、人間が作り上げた言語が織りなした世界の有り様に沿って(盲目的に)行動しているわけである。例えば私たちは平日の朝、何の疑いも抱かず満員電車に揺られて通勤するようなことを毎日繰り返している。千葉は、このような状況を「環境のコードにノッてしまっている」と表現する。


しかし、「言語そのもの」はもともとはそのように人間を束縛するものではなかった。そこに気づくことで、環境コードの束縛から逃れ、新たな可能性を見つけ出すためのヒントが得られる。私たちが使っている言語は、生まれてから他者が言葉をどのように使うかを真似ながら脳にインストールしてきたものであって、そのプロセスを介して自分の外にあったものの考え方の基本的な方向付け(コード)も同時にインストールされてしまっている。私たちが世界の有り様にコントロールされ、束縛されていることは、言い換えれば、言語的なコントロールを受けていることだともいえる。しかし、「言語そのもの」は、そのようなコードから切り離されて存在しうる(言語は現実から分離している)ことも忘れてはならない。


どういうことかというと、言語は、私たちに環境コードに従うことを強いるものであると同時に、逆に、そのような環境コードに対して「距離をとる」ために使用することが可能だということである。つまり、私たちが、言語によって構築された環境にコントロールされているということを、一歩距離を置いて(幽体離脱したように)眺めることが可能なのである。言い換えるならば、現在において私たちが経験している世界は、人間によって言語的に構築されたものであるが、言語の性質(言語はそれ自体として結局はただの音にしかすぎない)からしてそれは必然的なものではなかったはずである。そこに気づき、言語的構造基盤の根本まで深く入っていき、言葉の用法=意味の根本的な部分に変更を迫ることにより、構築されたものを分解・破壊し、再構築する、すなわち新たな別の可能性を切り開くことも可能である。ただし、「世界=言語」であるので、言語の外の世界に飛び出ることはできない。あくまで「世界=言語」が再構築されるということである。そこでは、自分自身も言語的にバラバラにし、多様な可能性が再構築されては、またバラバラにされ、再構築される。これが繰り返されるわけだが、これが千葉のいう、勉強による自己破壊である。


上記は、千葉によれば「言語は現実から切り離して自由に操作できる、言語操作によって無数の可能性を描くことができる」ということになる。いま属している環境にない可能性を、言語の力で想像できるからこそ、私たちは夢や希望を抱くことができる。そのためには、日常的に私たちが行っている言語使用、すなわち「道具的な言語使用」(外部目的的)に加え、おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体が目的(自己目的的)になっている「言語の玩具的使用」が重要になってくると千葉は指摘する。勉強法とは、言語をわざと操作する意識を育成することで、別の可能性を考えられるようになることである。別の言い方をすれば、深く勉強するとは、言語偏重の人になるということだと千葉は言うのである。その後、千葉は、著書において、玩具的な言語使用を通じた勉強法として、アイロニー(ツッコミ)、ユーモア(ボケ)、ナンセンス(ツッコミとボケの極限形態)の特徴と使い方を紹介し、それに基づいた具体的な勉強法についても言及している。