インドネシア映画「虹の兵士たち」

インドネシア映画「虹の兵士たち」(Laskar Pelangi)を観た。
思うところはいろいろあるけれど、一番印象的だったことを挙げるならば、教師が教えようとしていることと生徒が身につけることの間には大きな溝があるということ。
ムハマディヤ小学校で教えられていたことは、精神的なものに関する部分を除けば、インドネシアという場が設定された上で必要となる知識だった。もっとも、これはムハマディヤ小学校だけでなくよその小学校でもたぶん同じだろう。
象徴的なのは、教師が黒板にバンカ島の地図を描いて見せたところ。黒板いっぱいに描かれたバンカ島の地図は、これが世界のすべてだと言わんばかりに見えた。では、バンカ島はどこに位置づけられているのか。教室にはもう1枚の地図があり、教師が言った地名を生徒が指すという授業もあった。ここで使われていたのはインドネシアの地図だった。あちこち破れていたのはインドネシアの統一性がほころびかけていることと重なって見えるが、それはともかく、インドネシアの地図の中に自分たちの居場所も位置づけられていた。また、ときどき画面に映される黒板には「多様性のなかの統一」とか「1884年ブキティンギ」などと書かれていて、インドネシアの国家と国民の一体性についての授業がなされていることがうかがえる。これらはいずれもインドネシアという世界で暮らすために必要な知識だ。
これに対して生徒たちは、実にさまざまな方法で外の世界から知識を手に入れていた。登場人物が多かったので名前はうろ覚えだが、わかりやすいのはラジオを聞いていた子。「他の子にはジャズは早いか」なんて気取った台詞を吐いているけれど、これは自分が世界の最先端にいるという思いの裏返しだ。筋肉モリモリにすると女の子にモテモテになると言って男の子たちに秘訣を教えてあげようとしていた子。手にしていた広告入りの印刷物は新聞か雑誌だろう。ほかにも、店にチョークを買いに行くついでに新聞を読みふけっていたり、隣の小学校のお金持ち生徒からフェンス越しに雑誌をもらったりと、それぞれさまざまな方法で外の世界の情報を手に入れており、しかも古い情報だけでなく最新の情報を手に入れている。
ただし、よその世界から得た情報をそのまま受け入れているわけではない。神秘主義のようなものも入ってきて、それにのめり込んでしまう生徒も出てくるし、他の生徒たちもそれにつきあって呪文を唱えたりする。でも、ほとんどの生徒はその情報の妥当性が判断できていて、生徒たちに任せていれば自分たちでちゃんと情報を選びとることができる。


タイトルの「虹の兵士たち」は、課外授業で虹が出ていたとき、先生が生徒たちに「虹の兵士たち」と呼びかけたもの。
虹の話が出たとき、生徒の1人が、虹というのは水中の水滴に日光が当たって7つの色に分かれて見える現象だと解説していた。水滴なのでもともと色はついていないけれど、外から光が当たって7色に輝いて見える。これと似た説明は髪の毛の話でも出てきた。髪はもともと白いけれど、色素があるので色がついて見えて、色素が抜けると白くなるという説明だった。
どちらも、そのもの自身に色はついていないけれど、よそから得たものを取り込むことでいろいろな色に見えるということだ。それがこの生徒たちと同じだから「虹の兵士たち」か。いや、この学校の生徒たちに限らず、どの子どもたちにも共通して言えることだ。説明するだけ野暮だけれど、あえて説明するとこうなる。わかりやすくするために話を学力に限る。1人1人の子どもに生まれつき学力という色がついているわけではなく、よそから得た知識や考え方によって子どもたちは何色にでも輝く。だから教育が大切だ、という話につながっていく。もちろん、ここでいう教育とは狭い意味での授業科目だけではなく、ムハマディヤ小学校で校長先生が教えていたようなことも含まれる。
もっとも、先に書いたように、生徒は教師が教えようとすることをそのまま学ぶわけではない。学校の外から得られる知識や考え方も取り込んで、自分たちなりに消化したうえで身につけていく。ということは、身も蓋もないことを言ってしまえば、ムハマディヤ小学校だろうがスズ公社付属小学校だろうが、子どもたちは自分たちなりに学べるということだ。だから、たとえムハマディヤ小学校が閉鎖されたとしても、子どもたちへの希望が断たれるわけではない。念のために付け加えると、これはムハマディヤ小学校がなくてもよかったという意味ではない。生徒(というか子どもたち)は自分たちなりに学んでいくものだけれど、それを妨げずに伸ばせるかどうかは環境に左右される。ムハマディヤ小学校の先生たちがいたからこそ、子どもたちが身につけたものがうまく伸びたということだろう。


ところで、「虹の兵士たち」の謎は、どうしてこの映画がインドネシア史上最大のヒット作となったのかということだ。インドネシア版「二十四の瞳」というキャッチフレーズは確かにわかりやすいけれど、この映画は学校ものというより基本線は「Ayat-Ayat Cinta」や「3 Doa 3 Cinta」などと同じイスラム教映画というべきだろう。その特徴は、漠然とした言い方になるが、「観た後で心を入れ替えなくてもよいイスラム教映画」「中東などのイスラム教と同じでなくていいと言ってくれるイスラム教映画」だ。今のままの自分でよいと肯定してくれるため、身がまえなくていい。
これは最近のインドネシアでのイスラム教的要素の流行とまったく変わるところがなく、受け入れても自分を改めなくてもよいために流行っている、あるいは、ありのままの自分を肯定してくれるものとしてイスラム教が利用されているということになる。
このことは政党でも同じ。イスラム国家建設を究極の目標に掲げる政党がこのところインドネシアナショナリズムを唱え出したことが話題に上っているけれど、そもそもその政党はイスラム主義を掲げた政党だったのか、そして人々がその政党を支持したのはそのためだったのかと問いたい。ほとんどの人にしてみれば、受け入れたところで自分のあり方を否定されたり改善を強要されたりすることがないために支持しているという程度ではないのか。
映画のヒットの背景に話を戻せば、安心して受け入れられるイスラム教が話題であること、そしてお金を比較的自由に使える世代をうまくつかまえることができたこと(子どもたちを主役に据えたこと)が大ヒットの背景かななどと想像してみる。


関連して1つ気になったこと。虹の色を7つと言ったとき、7色の頭文字を並べたような覚え方?を口にしていた。マレー・インドネシア語でも虹の色は7つだったのか、そしてその覚え方はあるのか。だいぶ昔、マレー語で虹は3色だと聞いた記憶がある。赤黄緑だったかな。出典がどこだったか今となってはわからないので何かの誤解だった可能性もあるけれど、少なくとも今はマレー・インドネシア語で虹は7色というのが一般的ということだろうか。