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リテラシーと理解について考える

2010-11-06

ポプラ社大賞

 面白がって調べてみました。

 ポプラ社の今の坂井宏先社長は「ズッコケ三人組」「かいけつゾロリ」といったベストセラーになった作品を企画・編集を担当し、所謂「漫画的」な技法を児童書に取り入れた事でも知られる「名編集者」で、同族経営らしいポプラ社で一般入社の社員で自ら目指して社長になり、就任してからも企画物や新規事業等で実績を上げた人のようです。
 ポプラ社は近年経営が厳しいらしい児童書出版では健闘しているように見えます。(理論社は駄目でしたが*1
 経営者としても積極的にメディアのインタビュー等を受け、露出を好む「山っ気」のある人物といえるかもしれません。
 この程度の「演出」をしてもおかしくは無い印象は感じられます。「やらせ」だとしてもおかしくないです。
   
 ポプラ社小説大賞も第一回の大賞受賞者は元からポプラ社と関係が有った人のようです。
 実物を読んではいませんが(受賞後相当推敲したらしいですが)出版後の売れ行きやネットでの反応を見るとそれ程すごい作品だとの評価も無いですから、第一回で受賞者無しだと格好がつかないという事で仕方なく身内に受けさせた様にさえ見えます。
 後の受賞作等を見てもヒットしたのは小川糸氏の「かたつむり食堂」だけのようです(これも読んではいませんがどちらかと言うと特定の読者層に「癒し」を感じさせるタイプの作品で評価も様々です)。
 (後に他社でデビューしている作家も多い様なので腕試しには充分為っているようですが・・・)
   
 まずこの大賞の要求している評価基準がわかりにくいです。普通有名作家らの審査が有る場合はその面子でジャンルやレベル等傾向が見える物です。
 それを社員審査で行うという事はその小説の文芸としての価値よりも「商品」としての値打ちを基準にしているとの理解も可能です。
  エンターテイメントの賞で高額の賞金だと作品の文芸的な価値ではなく商品価値として2000万円だとすると理屈は通じます。
 調べた範囲で言うと版元の利益は22〜30%位らしいので最低10万部以上売れないと元は取れない事に為るのでそれを大賞の選考基準のひとつとも考えうるとするのも可能です。
 受賞者が居なかったのは、2000万円の賞金に見合った経済的な価値のある作品なかったからだとも見えます。
 応募作は多くとも元から賞金から期待されるほどはレベルが高くはない作品しか来ていなかったのかもしれません。
     
 水嶋ヒロ氏の作品は「テーマは命。ジャンルを飛び越えた新しい小説」「自殺する男を止めて、命を助けようとする物語」「先の読めない時代だからこそ、見通しの利くような作品を選びたかった」「いろんな見方ができる。ジャンルの垣根を超えた新しい作品。心の奥を深く揺すった」「SF、ファンタジー、社会派小説」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101101-00000017-oric-ent 
と有りますから『既存のはっきりとしたジャンル小説ではなく(決め事がゆるい)、現代を舞台に(難しい「世界観」は無い)自殺しようとする男を「奇跡」か「超能力」で(小説内の出来事を理詰めで説明しない)助けようとし、「命」について感じさせる(「感動」できる)見通しの良い(すっきり読める)』「小説」のようです。この本を買う読者が共感が出来、特別な知識やセンスが無くても読め、楽しめる「作品」にはなるでしょう。
 いまどきの「売れ筋」の「小説」によくありがちな物にも見えます。
   
 小説の体裁をなしていてちゃんと編集者がアドバイスと時間をかけた推敲をしさえして読み易くすれば、水嶋氏の人気で受賞無しでも1冊1200〜1500円程度の単行本として最低5万部、受賞作だと10万部は軽く売れる商品ではないかと思えます。
 文芸としての価値はともかく商品としてはこの大賞に値する商品価値があると考えるのは不謹慎でしょうか。
   

 エンターテインメント小説とはどのようなものですか?
 私たちの考えるエンターテインメント小説とは、読み手を楽しませることができる小説です。どのように楽しませるかは作品ごとによって異なり、また作品の力量の出るところでもあると考えています。
 http://www.poplar.co.jp/taishou/faq/index.html


    
 賞の案内の記事に有るようにポプラ社の基準は読み手の満足がまず重要とする市場主義的な部分を認めえる立場のようです。
  
 元々大賞受賞者無しでも成り立つ様なので、他の作品が2000万円のレベルに達しているのも関わらず他の賞に廻されるか落選の憂き目に会うなどのしわ寄せが具体的に無い限り、WINWINの結果とも言えます。
 恐らくこの手の本を直ぐに買う読者は殆どが普通に満足、慎重な読者は書評が出て評判を聞いてから買うので損は無し、他の受賞者は話題性が出来て手にとってもらえる可能性が増え損はなし、出版社は売れれば得。デビュー作が「売れすぎる」リスクがあるのは作家本人位でしょうか。
   
 元々知名度から言ってデビュー作に関しては小説の体裁が出来ていて(大幅に手を入れ実質的に他人が書いたとしても)値段とデザインさえ市場的に良ければ何万部かは確実に売れる「商品」ですから中身は見ずとも声をかける出版社は幾らでも有ったのでしょう。
   
 結局小説が出てみないと何とも言えないのは間違いないのですが。


 実はここまでは前置き(笑)。

黒猫亭日乗「御伽噺を信じられないオレ(笑)」
 http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2010/11/post-7112.html#more

 何度かコメントを書かせて頂いているブログなのですが、ブログ主の黒猫亭さんがお怒りのご様子。

>「ああ、こう謂う筋書きになってたのね」
>現状ではかなり粗い代物らしい。
>何と謂うか、水嶋ヒロを巡る諸状況においては、いろいろ大人の事情が絡んでいるだろうことは誰が考えてもわかる話ではあるのだが、そこまでくだらないお茶番にはとてもじゃないが附き合いきれないと謂うのが本音のところである。 
>…いや、何だかこの件を考えると際限なく薄汚い想像が膨らんでしまうので、ホントにイヤなんだよなぁ。
>で、何だかイヤだなぁと思うのは、ポプラ社の側も児童文学が柱の版元だから割とマトモな会社だろうと思っていたら、莫迦みたいに高額の賞金で大向こうウケを狙うようなハッタリ臭い文学賞なんかでっち上げていて、その実一回しかマトモに賞金を出してない上に、どうやら普通の版元が食指を動かさなかった「元俳優」の書いた得体の知れない小説を引き取った代償に賞金をチャラにしたんじゃないかと謂う辺り、カネ絡みのセコいドロドロがあまりにも気持ち悪いです。



 
 少し前に水嶋ヒロ氏の「作家宣言」をネタにしておられその後この賞が出たので文芸に詳しい黒猫亭さんがどんな「落ち」にするのかと期待していたらごくごく直接的に「薄汚いやらせは納得できない」とのご意見です。(はっきり「非難」されているかは微妙です)
 
 私の理解としては元々私企業が行う、それも特に凄い権威も大きな実績もないマイナーな「ハッタリ臭い文学賞」を利用した誰も損のないWINWINの下らないけれど普通の商行為。本さえ出版されれば誰でも平等に内容を確認でき、後何作か出ればどこまでが「実力」かはわかる「やらせ」としてもそれほど罪深いとは思えない良くある「芸能ネタ」です。

 ですが「文芸」や「文学」に思い入れがある黒猫亭さんにとってはそれを汚されたようで不愉快なのはわかります。
 
 では何が興味深いかというとその前に「落語本二題」http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2010/10/post-440d.htmlの記事で堀井憲一郎落語論」について堀井氏の「ライブではない落語には本来の価値はない(大意)」との切捨てに

落語と謂う芸能は、二〇〇人も入れば一杯の限られた閉鎖空間で、一人の演者が観客を自分の言語空間に引きずり込む語りの熱狂体験である…その言明には、オレだって全然異論はないんだよ。単に「それ以外は落語じゃない」なんて「窮めて落語的ではない言明」が続かなければ、の話であるが(笑)。


と書かれた方が「文学賞は作品その物の中身のみの価値が問われるべきだ」とか「小説を商品として金の遣り取りの道具とするのは薄汚い」と書いているとも読める「ナイーブ」な感覚を隠さない様に見えるのが興味深いです。
 記事の中でも作品の評価基準を「である」「ではありえない」とする事についての言明の困難さについて述べられている方にしては簡単に述べられているように読めます。
 別に黒猫亭さんのご意見に矛盾があるとか論評に不満があるとかそういう事を述べたいわけでもありません。

 個人的にはエンターテインメント小説等と言うのは消費者が満足さえすれば基本的に問題はなく、個人や社会に具体的な害悪を与えたり権利の侵害をせず、選択や回避が困難な「被害者」が存在しない限りどんな内容でどんな売り方でも別にかまわないと思います。
 男前や女子高生の書いた「小説の内容」以外の部分に売りがあったりする物や有名人のうそ臭い「自伝小説」や「素人の手遊び」、読者におもねる品の無い願望充足小説でも消費者が満足さえすれば別に構わないのではないかと考えます。
 買いたくない本は買わない自由があり、読みたくない本は読まない自由が有りさえすればそれなりに公正だと考えています(勿論批判も自由ですよ)。

 エンターテインメントには顕著ですが、文芸は作品自体だけではなく製作者の「物語」(容姿や出自、時代背景や世間での評価)も含めて読まれます。夭折や美貌や波乱の人生、創作のエピソード等も現実には作品の一部として受け取られるのはごく当たり前のことだと思います。
 それも含めて作家デビューを「プロデュース・演出」をしたりするのは個人的には特に違和感を感じません。
 企業と私人のみが関与する経済活動ですから金銭的な「計算」が汚いとも思いません。現代の創作活動でその部分が非難に値すると結論付けるのは難しいように思います。
 じっさいは自分に商売人的な思考があるのでこちらのバイアスなのかもしれません。

 その立場からすると黒猫亭さんの水嶋ヒロ氏の受賞への不快感の吐露を批判的に読むと
 『小説と謂う文芸は、読書という限られた情報伝達の中で、表現者が読者を自分の言語空間に引きずり込む語りの体験である…その言明には、オレだって全然異論はないんだよ。単に「それ以外は小説じゃない」なんて「窮めて小説的ではない言明」が続かなければ、の話であるが』とも感じるわけです。
 エンターテイメントの価値を受け手個々の動機や嗜好とは切り離された無く文芸としての「品質」からのみで評価すべきであるという様な価値観が疑う事無く語られている様に読み取れます。

 別にその意見が問題だとしている訳ではなく、人は思い入れがある何かに土足で踏み入れられた様に感じたりすると(堀井氏は寄席に行かない「落語評論」がそうだと感じたのでしょうか)引っかかる部分があるのだという感想です。
 評論としてではなく話題として書かれているのでこの書き方や論法がいけないと考えている訳では有りません。芸能ネタですからこのような「読み」は当然認められるべきです。 
 きれい事は多いがいいかげんな人の行動の裏で行われるドロドロとした話に違和感を感じるのは私も同じです。
  
堀井憲一郎氏の「落語論」もAmazonGoogleで調べると黒猫亭さんと同じような理由で不評の感想が多く見られます、前後に外に3作ほどもう少し丁寧に落語とその周辺について書かれているのですがこの「落語論」は短期間で一気に書き上げたようでタイトルとは異なり厳密な「論」というよりも「個人の主義主張」があからさまに出た物のようです。

 黒猫亭さんのブログは面白く為になるのでお勧めです。ぜひご一読を。
  
 恵まれた人の文芸というネタで柳家花緑氏と水嶋ヒロ氏を書こうとも思いましたがここで終わり。

 〔追記〕
 どんな理由だと不公正にあたるか考えると、

 1)最初から本人が書いていない。
 これは問題。
 2)応募期日に間に合っていない。
 これは反則。
 3)最初から大賞を約束されていた。
 これはどうでしょう。上にも書いたように賞に値する作品(商品)がそれで弾かれていない場合には被害者は居ないですね…。
 「応募者を愚弄する」と考えるにはどうでしょう。
 それこそ(売り上げも含めた)実力の世界なのですから作品に価値さえあればどの道何かの賞が付いていたのですから、これは特にプロでも応募できる賞なのですから(実際に著名な脚本家がその名前で応募していたらしい)作品さえ見れば評価が出来ますね。「客」や「生徒」向けの「試験」ではなく、「価値」を問うcompetitionですから応募した時点で「商品」を出す「プロ」です、商品として問われるのはやむを得ないと考えます。少し微妙。
 4)嘘はいけない。
 第一回もそんな風にも見えるとか業界にはこの手の話は沢山ある…といった逃げではなく考えると、基本的には「良くない事」ではあります。
 5)優良誤認をさせる。
 自社名をタイトルにする賞ですから「品質保証」は企業ブランドが負います。元々たいした賞ではありませんし賞自体も宣伝ですしこれがいけないと出版物のコピーに「傑作」「すごい」等と内容についての評価的な言葉を出版社が書くのもおかしいと為ります。
嗜好品ですからこの商品が無くて困る人はいません。買う前に情報を集めることが出来ます。 
 これでの批判は難しい気がします。
   
 ちなみにどこで読んだかは忘れましたが漫才師爆笑問題太田光氏の小説デビュー作「マボロシの鳥」は初版3万部、数週間後に第2版で5000部が出たらしいです。
 
 〔追記2〕
 受賞がやらせで作品がだめな場合に確実に非難できる立場にあるのは、今までポプラ社大賞を信用して受賞作を買っていて、今回も水嶋ヒロ氏を誰か知らずにその本を買い、出来の悪さに落胆した人だと考える事は出来ます。

 〔追記3〕

爆笑問題 :太田の初小説「マボロシの鳥」10万部突破 水嶋ヒロも「すごい」とツイッターで絶賛
お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光さんの初小説集「マボロシの鳥」(新潮社)が、10月29日の発売から12日で累計10万部を突破した。
http://mantan-web.jp/2010/11/09/20101109dog00m200012000c.html

 水嶋ヒロ氏の『KAGEROU』は12月中旬発売との事です。もう出来ているようです。

黒猫亭黒猫亭 2010/11/10 17:21 ご紹介を戴きまして有り難うございます。

前半でお書きのことには特段の異論もありませんし、ウチでも同じようなことを書いたはずなのですが、後半でオレの発言に触れた部分がどうしてこうなっているのか、正直言ってサッパリ理解出来ません。

申し訳ないのですが、摂津国人さんがお書きのことは「何一つ」心当たりがないので、これをオレが書いたことだされるのも大変不本意ではあります。少し強い言い方になりますが、それこそオレの文芸観に関することですので、捨て置くわけにもいかないですから少し突っ込んで説明させて戴きます。

>>「薄汚いやらせは納得できない」とのご意見です。

いや、全然違います。オレが申し上げたのは「水嶋ヒロと謂う特定個人の生き様はくだらない茶番だらけでもう附き合いきれない」と謂うことであって、文学賞一般のやらせだの出来レースだのを批判した覚えはありませんよ。寧ろ、しつこいくらい「賞獲りに裏事情は附き物で、それで当たり前だ」と申し上げているはずですが、何故その部分はスルーされているのでしょうか。

>>ですが「文芸」や「文学」に思い入れがある黒猫亭さんにとってはそれを汚されたようで不愉快なのはわかります。

これも全然違います。「賞獲りに裏事情は附き物で、それで当然だ」と再三諄いくらい申し上げているのに、何故それに対してオレが怒っていると謂う理解になるのか、大変不思議に思います。

>>「文学賞は作品その物の中身のみの価値が問われるべきだ」とか「小説を商品として金の遣り取りの道具とするのは薄汚い」と書いているとも読める「ナイーブ」な感覚を隠さない様に見えるのが興味深いです。

こう謂う意見を直接書いた記憶もないですし、そう解釈し得るような記述も書いた覚えがないので、これも何故そのように解釈されたのかよくわからないと謂うのが本当のところです。

>> 『小説と謂う文芸は、読書という限られた情報伝達の中で、表現者が読者を自分の言語空間に引きずり込む語りの体験である…その言明には、オレだって全然異論はないんだよ。単に「それ以外は小説じゃない」なんて「窮めて小説的ではない言明」が続かなければ、の話であるが』とも感じるわけです。

なので、当然ここも何故先般の落語本のエントリと絡めた上でオレ個人の「小説観」の話になるのかサッパリわかりません。

何故ここまで本人の意図から外れた理解になるのか、それともオレ以外の人間からはこう読めるのか、大変理解に苦しんだのですが、二、三回こちらの記事を読み直してみたところ、その理由が判ったように思います。

もしかして摂津国人さんは、今回の件について、是非の判断基準を「やらせを肯定するか否定するか」の二分法で考えておられるのではないですか? 追記などを含めて拝読すると、どうもそのように感じられますし、摂津国人さんのオレの記事の理解はそのような前提に立たないと筋が通らないように思います。

そのような予断に囚われておられたのであれば、オレの記事を読んでも真意が通じないのは当然かもしれませんが、オレの立場で謂えば、今回の件については「やらせであるかないかは是非の判断基準ではない」と謂う見解です。大前提として「賞獲りに裏事情は附き物で、それで当然」と謂う基本認識なのですから、論理的に謂ってやらせを否定するなら文学賞自体を否定することになりますが、そんなことは一言も申し上げていないはずですよ。

このように、「やらせであるかないか」と謂う判断基準を採用していないので、摂津国人さんは混乱されたのかもしれませんが、では何をして「薄汚い」と表現したのかと謂えば、引用された文章通りですよ。

「莫迦みたいに高額の賞金で大向こうウケを狙うようなハッタリ臭い文学賞なんかでっち上げていて、その実一回しかマトモに賞金を出してない上に、どうやら普通の版元が食指を動かさなかった『元俳優』の書いた得体の知れない小説を引き取った代償に賞金をチャラにした」ことが、個別の商行為として胡散臭くて汚らしいと謂う話をしているのです。やらせや出来レースだから汚いと謂っているのではなくて、相手の足許を視て賞金を吝んだのだとすれば、それはセコすぎて薄汚いと言っているのです。

商行為と謂うのは、儲かれば好いと謂うものでもないはずで、たとえば版元が文学賞を立ち上げて、結果的に自分たちにとって既知の人材に賞を与えると謂うのは、別段汚い行為ではありません。

多かれ少なかれ文学賞と謂うのはそう謂うもので、複数回応募した末に受賞すると謂うことは選考者にとって既知の人材になってから受賞すると言い換えてもいいのだし、版元が子飼いの書き手を使って賞獲りをプロデュースするのも、既知の人材に賞を与えたと謂うだけで、別段非難される謂われがあるわけではありません。逆に謂えば、文学賞と謂うのは多くの場合、選考者にとって既知の人材に対して与えられるものだと謂っても構わないでしょう。

それは、プロの作家を輩出することを目的としたイベントである以上、コンスタントな執筆能力や職業意欲を視るのは当然のことで、それはたった一度の応募だけではわからないものですから、それで当然のことです。こう謂う理屈については、ウチのブログでも書いておりますよね。

ただし、「どこよりも高い賞金を出すから奮って応募してください」と謂う謳い文句で応募を釣っておいて、結果的に五回の内一回しかマトモに賞金を出していないと謂うのは、裏事情の基準で考えても薄汚い商行為です。そこには「出すと請け合ったカネを出し渋った」と謂う何の名分もない銭吝みのセコい動機しかないからで、出来レースとかやらせとか、そう謂う裏の合理があるような事情とはまったく違います。

考えてもみてください。サントリーや講談社が毎回コンスタントに一〇〇〇万円の賞金を出すと謂うのなら、両社の資本力や文学賞の宣伝効果などを考えてマトモな算盤勘定ですが、ポプラ社が毎回二〇〇〇万円出しますと謂うのはどう考えても身の丈に合っていませんよね。そこからして胡散臭いわけですが、主宰者のポプラ社側が出すと謂うんだったらそれに文句を附ける筋合いではありません。世間に向けた宣言通り、マトモに賞金を出す限りにおいては、です。

で、第一回の受賞者を基準に考えるなら、大賞が二〇〇〇万円で一作品、優秀賞が五〇〇万円で二作品ですから、本来毎回三〇〇〇万円の賞金が出るはずで、五回続けているんだから、総計一億五〇〇〇万円の賞金を支払っているはずですよね。

ところが実際には、第二回以降合算で一〇〇〇万円しか支払っていないんですから、総額で四〇〇〇万円、つまり四分の一強しか支払っていないわけです。これを摂津国人さんのように「二〇〇〇万円の商品価値のある作品がなかったから」と解釈するなら、それは逆に謂えば「二〇〇〇万円儲かる保証のない作品に賞金は出せない」と謂う話になりますが、それは飽くまで主宰者側の台所事情のはずでしょう。

最初から儲けを保証してくれるような素晴らしい作品の応募があるはずだと謂う予断が愚かなのですし、文学賞の伝統や権威と謂うのは、主宰者が長期的に腰を据えて育てるもので、いきなり「大金を出すからそれだけ儲かる作品を書いてくれ」なんてのは料簡が甘いし、札束で横面を叩くような下品な行為だとしか言い様がありません。

サントリーミステリー大賞にしろ乱歩賞にしろ、長い歴史の中で該当作なしのほうが少ないわけで、毎回コンスタントに受賞者を輩出していて、大賞受賞が無名だった新人のステップボードとなっているわけですから、これをウィン・ウィンの関係とは謂えるでしょう。しかし、ポプラ社の文学賞は、賞金だけは高額だがその実三回続けて大賞受賞者を出さなかったのだから、文学賞に求められる社会的名分をまったく果たしていないばかりか、出すと公言したカネを出さないと謂う不誠実行為を犯しているわけです。

摂津国人さんはそれで問題はないと仰いますが、それは違います。流石にそれは世間に対する信頼の失墜と謂うペナルティを蒙る薄汚い行為ですよ。たしかに、大賞受賞者が存在しないのですから、直接の被害者は出ていませんが、高額賞金で世間の耳目を集めておきながら、その世間に対する信義を裏切っているわけです。謂ってみれば、商行為として薄汚い。この種の社会に対する信義については、社会からの信頼が必要なマスコミとしてはまず居住まいを正すべき部分でしょう。

オレがポプラ社の姿勢で問題にしているのはそこであって、賞獲りが出来レースだかやらせだか、そんなことは別段どうでも好いし、ヒロの作品の出来がどうだろうとそんなことは一言も問題にしていないはずですよ。

それを謂うなら、ろくに世間のことも識らない子供が書いたケータイ小説なんかもどうなんだと謂う話になりますが、オレ自身、摂津国人さんと同様に、それを喜んで読む読者がいるんなら別段非難される謂われのない商行為だと考えていますし、そう謂う考えについては常日頃から公言していますよ。ドラマや映画だってそうなのであって、ニーズがある限りそれに応えようとするのは誠実な商行為で、何度も何度もオレはそう申し上げているわけです。今回の問題についても、そこを論点にした覚えはまったくありません。

オレがポプラ社の姿勢について敢えて「見せ金」と謂う犯罪用語を使ったのは、一個の商行為としての不健全さを忌避するからで、出来レースややらせと謂う一種賞獲りと謂う特殊な職業領域における慣例とはまったく違う問題です。個別の商行為として、それは世間を騙す不健全な行為だろう、と謂う意味で不快感を覚えたのですよ。

ですから、今回のヒロの件とオレの文芸観と謂うのは特段の関係はないわけで、水嶋ヒロと謂う特定個人のこれまでの生き様がどうも茶番に次ぐ茶番でくだらないから興味を喪ったと謂っているのだし、それを拾ったポプラ社も、これまでマトモな版元だと思っていたけれど、よく調べてみると世間に対して「こんな高額の賞金を出すんだ、どうだ凄いだろう」と見得を切ったカネをバックレるようなカネに汚い会社だね、と呆れたと謂う話で、文学の話でも何でもありません。

申し訳ありませんが、「やらせであるかどうかは一切判断基準にしていない」と謂う前提で、もう一度オレの書いたことを読み返して戴けませんか。そうすれば、摂津国人さんがお考えのようなことは何一つ書いていないことが諒解されると思います。

摂津国人摂津国人 2010/11/11 01:13 >黒猫亭さん
 わざわざコメントを戴き有難うございます。恐縮します。

 こちらの認識としてはまずこのポプラ社小説大賞そのものが本来的な「文学賞」とは性格の異なる物であるという理解をしています。
 上にも書いたとおりタイトル名も応募要綱にも審査員の人選にもまともな基準の見えない事実上『一冊の本になる「小説」で2000万円の賞金の価値のあるもの』としか読み取れない上に、尚且つ1回目以降の賞金の出し方で見るとわかる「売れそうなモノが欲しい、無ければ払わない」程度の代物でしかないのは明らかで、実際その水準の作品しか集まってもいない様にも見えます。

 どう見てもサントリーミステリー大賞にしろ乱歩賞やメフィスト賞と同じ「文学賞」といえるような代物だとは思えません。

 社会的な認知度もステイタスも無い「「莫迦みたいに高額の賞金で大向こうウケを狙うようなハッタリ臭い文学賞なんかでっち上げていて、その実一回しかマトモに賞金を出してない」であると考えていますし世間からもそのように扱われるべき賞であるとも思っています。

 これについては応募者はこの4回の経緯を「見せ金」であることも含め商品をコンペに出品する「プロ」として認識しておくべきであるとも考えます。
 ポプラ社小説大賞のことを調べると「大金を出すからそれだけ儲かる作品を書いてくれ」との下品な姿勢と「出せる価値のある」作品のこない現実と「だから払わない」との行為に苦笑するしかありません。
 企業の社会的な信頼を切り売りする恥ずかしい行為です。
(だから毎回確実に受賞させ、予算を使い育成できるということで200万にしたのは正しい軌道修正だと思います。選考にも1000万円近く掛かっていたのではないかとの記事をどこかで読みました)

>摂津国人さんは、今回の件について、是非の判断基準を「やらせを肯定するか否定するか」の二分法で考えておられるのではないですか? 

 これについてはこちらとしては一般論として「許されるやらせ」と「許されないやらせ」があると考えています。

 この賞の選考方法や賞金の下品な「見せ金」的なちらつかせ方自体がすでに「マスコミ」に値しない「薄汚い」でこの話じたいが既に文芸のレベルともいえない芸能ネタの宣伝行為以外の何者でもないとしか理解していません。
 ゴシップをネタに「タレント本」を売ろうとしているのは明らかに見えます。どう見ても出来の悪いコントだと感じています。 
 その意味ではこの受賞自体があり程度「物語」で有る事を認める人たちのみが「物語」として「消費」する「許されるやらせ」であると考えています。それこそ芸能マスコミで言う「セレブ」と同じものです。水嶋ヒロ氏自体もネタとして消費される商品でしかないでしょう。

 同時にポプラ社を「マスコミ」といいえるとは考えていません。
 

 ですからこの話は基本的には「哂う」という形で「肯定する」のが適当な判断ではないかと考えるわけです。

 その意味では黒猫亭さんの記事に対する違和感は「やらせを肯定するか否定するか」という二分法で考えているとの意味でも有ります。
 「肯定」はポプラ社の信頼を認めず水嶋氏の茶番に呆れるとの立場で、不快に感じる「否定」はその時点まではポプラ社と水嶋氏を「信じていた」との意味になります。黒猫亭さんはその前の記事ですでに水嶋氏の行動を茶番としているように見ていました。

 上の記事はこの「茶番」に対する黒猫亭さんがこの件に不快感を感じる「動機」がこれをまだどこか「文学」に対する軽視と感じる「文芸感」に有るのではないか、それは堀井氏の「寄席」と「録音」に見られる本物・偽物感とも通じる物ではないかとの感想です。
 哂える可愛い「茶番」だと思っていたのが、不快な「茶番」と感じられたのは文芸感ではないかとの理解で書きました。

>「やらせであるかどうかは一切判断基準にしていない」と謂う前提

 その点は同意でこちらも「やらせ」であるかどうかの問題よりもどちらにしろ馬鹿馬鹿しい「茶番」でしかないだろう、「芸能ネタ」に不快感を感じられた動機について興味深く感じたとの記事でした。
 読み取れない書き方で申し訳ございません。価値観の押し付けに感じられましたらすみません。
 
>どうやら普通の版元が食指を動かさなかった『元俳優』の書いた得体の知れない小説を引き取った

 ここが少しわからないのですが『3万〜5万部は売れる「タレント本」』書き直させて手を入れれば何とかなるだろう間違いなく利益がでる本に食指を動かす「普通の」版元が無いという事が有るのでしょうか?。

黒猫亭黒猫亭 2010/11/11 02:58 >摂津国人さん

結局ですね、摂津国人さんとオレの意見には明確な対立軸がないんですよ。

摂津国人さんもポプラ社小説大賞が恥ずかしいハッタリでしかないと感じておられるのだし、それを苦笑しておられるわけで、企業の社会的な信頼を切り売りする恥ずかしい行為だと感じておられるわけですよね。

>> この賞の選考方法や賞金の下品な「見せ金」的なちらつかせ方自体がすでに「マスコミ」に値しない「薄汚い」でこの話じたいが既に文芸のレベルともいえない芸能ネタの宣伝行為以外の何者でもないとしか理解していません。
>> ゴシップをネタに「タレント本」を売ろうとしているのは明らかに見えます。どう見ても出来の悪いコントだと感じています。

オレもそのように感じたから、薄汚い商売だと言ったまでの話で、水嶋ヒロについても確たる信念もなくネタとして消費される商品でしかない生き方に甘んじる男なので興味なんかないよと謂うだけの話で、それについても摂津国人さんも同じようなご感想なわけでしょう。

>> 上の記事はこの「茶番」に対する黒猫亭さんがこの件に不快感を感じる「動機」がこれをまだどこか「文学」に対する軽視と感じる「文芸感」に有るのではないか、それは堀井氏の「寄席」と「録音」に見られる本物・偽物感とも通じる物ではないかとの感想です。

では、これまでの意見についてオレと摂津国人さんの意見にさしたる違いはないのですから、だったら摂津国人さんも「文芸観」に基づいてそのようにお考えになったのですか、と謂う話になります。茶番をくだらないと感じるかどうかは、文学観とは一切関係のない感覚だと思うのですが、どうですか。

>> 哂える可愛い「茶番」だと思っていたのが、不快な「茶番」と感じられたのは文芸感ではないかとの理解で書きました。

一応その都度確認しておきますが、それは違いますね。すでに名前のある有名人が小説を書いたから発表したいと謂うなら、一応それを採用する版元はあるんですね。ただ、そう謂うタレント本を手懸けるところは普通の一般向けの小説を出していないところが多いわけで、小説をやっているちゃんとした版元は社会的信用の問題があるので、こと小説に関しては際物の書き手には手を出さないわけです。

どうも何だか誤解を招きがちなので一応お断りしておきますが、これはオレが小説を特別視していると謂う意味ではなく、出版界の商慣習みたいなものがそうだと謂う話をしております。

>> ここが少しわからないのですが『3万〜5万部は売れる「タレント本」』書き直させて手を入れれば何とかなるだろう間違いなく利益がでる本に食指を動かす「普通の」版元が無いという事が有るのでしょうか?。

そう謂う意味で、多分今回ヒロはそう謂うタレント本を出すところではなく小説を手懸けているような版元に声を掛けて回ったんだろうけれど、そこからは思わしい手応えが得られなかったんだろうとオレは考えています。

その意味で、ポプラ社ってのはギリギリですね。児童書の会社だから一般小説の発表の場としてちょっとアレだけれど、一応知名度のある旧い会社だし、賞金が高額だから話題性もある、そこら辺で何とか条件が折り合ったんだんだと思います。

で、小説を手懸けているような版元は何で「3万〜5万部は売れる『タレント本』」に手を出さないかと謂うと、版元が手懸ける小説に対する権威みたいなものが商売のネタになっているからです。ちょっと売れて目先の儲けが稼げたからと謂って、その商売のネタそれ自体を切り売りするのは商売の理屈で考えても算盤が合わないでしょう。

食べ物屋で喩えれば、無化調のホンモノをウリにしている店が、その一方で幾ら売れたとしても添加物だらけのインスタントラーメンとか売らないでしょう。何か価値のあるものを売る場合に必要な社会的信用は、それとは相反する無価値なものを売らないことで得る側面もあるわけです。

ヒロがポプラ社小説大賞一本で決め打ちしてそれ以外に何の手も打っていなかったなんて謂う話を信じるのでなければ、少なくともポプラ社小説大賞が一番マシな条件だったとは思えない以上、他にも声を掛けたけれど引き取ってくれなかったと推測することに一定の妥当性はあるでしょう。

そして、ただ単に小説を書いて刊行したと謂うだけではなく、巨額賞金の文学賞を受賞したと謂う華々しい快挙の形にしたがる辺り、要するにヒロのやり方は「茶番としてしつこい」んですね。

そのしつこい虚栄が鬱陶しいと謂う徹頭徹尾心映えに対する美的感覚の話をしているつもりであって、文学観とは一切関係のない話です。対象が文学ではなくスポーツや芸能だったとしても、そこまでしつこい茶番は鬱陶しいと謂う話です。

>>その意味では黒猫亭さんの記事に対する違和感は「やらせを肯定するか否定するか」という二分法で考えているとの意味でも有ります。

ここが意味がわかりません。単にオレが言ったことをそのままオレに言い返しただけに見えるのですが、そう謂う二分法の判断基準とは無関係だと申し上げた通りですよ。そもそも、商行為として薄汚いと謂うことについては見解が一致しているのですから、それを笑うかウンザリするかと謂う情緒的な反応の違いが考え方の違いだと謂う話にはなりようがないでしょう。それは薄汚い行為一般に対してどう感じるかと謂う感覚の違いにすぎません。

>>「肯定」はポプラ社の信頼を認めず水嶋氏の茶番に呆れるとの立場で、不快に感じる「否定」はその時点まではポプラ社と水嶋氏を「信じていた」との意味になります。

これはどうとでも謂える言い方で、「ポプラ社の信頼を認めず水嶋氏の茶番に呆れること」を両者を貶めていると謂う意味で「否定」と表現出来るし、「その時点までポプラ社と水嶋氏を『信じていた』と謂うこと」を信頼に足る相手と見做していたと謂う意味で「肯定」とも表現出来ますね。この肯定と否定の基準は、単に摂津国人さんがご自分の意見に整合するようにこの場で設けられた恣意的基準にすぎません。

つまり、何が肯定になって何が否定になるのかと謂うのは、言い方次第で何とでも謂えると謂うことです。

結局ですね、摂津国人さんはオレがこの件を肯定しているのか否定しているのかと謂う二分法で判断しておられることに変わりはないわけで、オレは単に特定個人の生き方にウンザリしたと謂う話をしているだけなのだし、薄汚い商行為にウンザリしたと謂う話をしているだけで、そこまでなら摂津国人さんと対立軸はまったく存在しないので、それは否定とも肯定ともどうとでも謂えるわけですね。摂津国人さんは、ご自分がこの件を「否定」していないと謂う前提の下に、自分とは違う感じ方を「否定」と表現しているだけにすぎないと思いますがどうですか。

間違いなく謂えるのは、摂津国人さんがその認識から出発してお考えになって「黒猫亭はこう言っている」「黒猫亭はこう考えている」と仰った事柄に対して、本人のオレはちっともそんなことを言ったつもりもないし、そんなことも考えていないと感じていると言うことです。

その意味で、オレが今回の件を「否定」したことになる理路を説明されてもその事実は変わらないわけで、オレが申し上げているのは、何故摂津国人さんがオレが思ってもいないことを言ったかのように思い込まれたのか、その理由についての推測ですから、その理由を「おまえこそそうじゃないか」的にオレに投げ返されても、まったく意味はありません。

オレが摂津国人さんのご意見を枉げて取ったわけではなく、摂津国人さんのほうがオレが納得出来ない解釈をされたのですから、オレに同じことを仰ってもまったく意味はないんですよ。

摂津国人摂津国人 2010/11/12 01:11 >黒猫亭さん

>結局ですね、摂津国人さんとオレの意見には明確な対立軸がないんですよ。

 それはその通りです。対立軸は有りません、本文にもそのように書いたつもりです。悪文で読み取れなければすみません。

>だったら摂津国人さんも「文芸観」に基づいてそのようにお考えになったのですか、と謂う話になります。

 その通りです。黒猫亭さんの「文芸観」(と理解したもの)とこちらの「文芸観」(というかエンターテイメント商売観?)の違いから、ひとつの情報の受け取り方の違いが何らかの動機による物ではないかとの興味を考察した物です。受け手の重視する「何か」が表出した反応ではないかと考えています。(自分自身も含めてですが)

>美的感覚の話をしているつもりであって、文学観とは一切関係のない話

 美的感覚と文学観は関係が有るとする認識を持っています。「感覚」的な物と「思考」との関係に関心があります。

 「言い方次第で何とでも謂えると謂うこと」をどう捉えるかについての興味を述べていますので「オレはちっともそんなことを言ったつもりもないし、そんなことも考えていないと感じていると言うことです」と仰るのは当然の反応です。

 水嶋氏の「小説」についてたしか「幻冬舎なら引き取るだろう」といったコメントをどこかで読んだので引き取り手が無いとは考えなかったのですが、当然ちゃんとした文芸出版社が引き取らないことはあるでしょうね。

 繰り返しますが異論でも反論でもなく、受け取り方がそれ以外にも可能な情報の受け取り方の選択についての私見です。
 ご不快に感じられました点については申し訳ございません。

 論点ずらしのつもりではなく少し別の話ですが。
 上で書いたポプラ賞出身の小川糸氏の「ようこそ、ちきゅう食堂へ」という食材エッセイ本を本屋で見かけて開くと「奇跡のりんご」の木村秋則氏の話やらがテンコ盛りで、文芸雑誌では「小説すばる」で同じく小川糸氏「つるかめ助産院」という自宅出産や「自然分娩」なんかを宣伝するすごい小説が巻頭120ページで、その上最後に「残りは近日発売の単行本で」との凄い引きで呆れました。

moharizamohariza 2011/01/04 12:44 はじめまして(?)、黒猫亭さんの所に、茶々を入れているものです。
ポプラ賞と水嶋ヒロ(ピラ?)については、興味ありませんので、コメントしませんが、

<4)嘘はいけない。>が、ものなりを売る時の基本事と思っています。

売り出し方は、どんな方法を使っても、世の中、嘘が罷り通っているので、大同小異と思っています。

今年、ある企画を考えていますが、売り込み方法(私は関与しません。アイデアのみで、廻りがやってくれるよう仕込みます・・・。)が大事とは思っています。
そして、売り方は、ネットの噂(口コミ)が、金が掛から無いと考えています。
その内、紙媒体なりに取り上げられれば、「どうぞ!」と云って、適当な煽り記事に仕立て上げてくれれば…、と思っています。

摂津国人摂津国人 2011/01/05 00:25 >moharizaさん、コメントありがとうござます。
   
 まあその業界に於ける一般的な商慣習等によって認められている「嘘」も有りますのでそれから離れていなければ仕方がないのでしょうね。
 「嘘」も文脈によって意味や位置づけが違い、強さや大小によって許されるレベルも色々有りますから難しい話です。
     
 ネットでの口コミはジャンルによって効果が異なるのでしょうから良く解りませんが、企画が上手く行くと良いですね。

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