河西宏祐著『電産の興亡(一九四六年〜一九五六年)』


(『日本労働研究雑誌』No. 567/October 2007、pp.116-120)

                          鈴木不二一


河西宏祐著『電産の興亡(一九四六年〜一九五六年) 電産型賃金と産業別組合』、早稲田大学出版部 2007 年3 月刊 A5 判・470 頁・6825 円(税込)

かつて, 日本の労働組合が, まぶしいほどの輝きとあふれんばかりの活力で, 政官財の各界を圧倒した時代があった。いうまでもなく敗戦後数年間の動乱期である。その輝きの中心にいた代表的組合として電産(日本電気産業労働組合) をあげることにはほぼ異論がないだろう。しかし, その組織力, 行動力, 知的水準の高さから, 「史上最強の組合」「輝ける電産」と賞賛され, まさに知的道徳的ヘゲモニーの発揮によって時代を領導したこの組合は, わずか10 年の命脈しか保てなかった。本書は, その夭折の歴史の実像に迫ることをライフワークとする著者の電産史研究第2巻にあたる。研究対象の存在の大きさにふさわしい入魂の力作である。第1巻の前著『電産型賃金の世界−その形成と歴史的意義』が, 敗戦直後の企業別組合結成と, それらが電産の前身である電産協(日本電気産業労働組合協議会) に結集し, 「電産十月闘争」(1946年)を展開する時期を扱っているのに対し, 本書は主としてそれ以降の時期, 1947年の単一産業別組織としての電産結成から1956年の電産崩壊までの期間を扱っている。ただし, 前著で扱った期間についても,本書の主題との関連でかなり詳しく概説されているので, 本書は独立した電産通史として読むこともできる。

1 問題意識と研究課題
著者は, まず「序章研究課題」で, 研究の目的,対象, 研究仮説を提示する。本書の研究目的は「①電産の約10年間の全史を描くこと, ②そしてできるだけ, 『当事者の論理』に即して事実を明らかにすること」である。②の「当事者の論理」の把握は, 著者が常に強調する方法的視点であり, そのダイナミズムの解明なくして歴史的存在の全体像を描くことはできないということから, ①と②の研究目的は密接不可分の関係にある。電産研究に限らず, 著者の実証研究は,常に丹念な聞き取り調査をもとに, 研究対象となる社会事象を, まずは「当事者の論理」に即して内在的に理解しようとする努力において際だっている。本書を読むと, 電産研究は, そうした著者の研究スタイルの原点でもあり, ひとつの到達点を示すものでもあることが了解される。
このような方法的視点にたって, 単一産業別組合としての電産(1947 年5 月結成) の生成, 発展, 消滅の過程の全体像を描くために, 次のようなふたつの研究仮説が設定される。
まず, 「仮説一」は, 電産史は「十二月協定」(1946年) の衰退史として理解しうる, ということである。
1946 年「電産十月闘争」が掲げた「三大要求」(①電気事業社会化, ②賃金要求, ③退職金) がすべて承認されて締結された「十二月協定」を当事者は「原始協定」とよぶ。本書は, その出発点の成果のすべてが,政府・経営側の攻勢によって次々と後退していく過程として電産史を描こうとする。ただし, 著者は陰鬱なる科学として, 初期の成果の衰退を跡づけるのではない。むしろその逆である。著者は, 電産の原点にこだわる理由として, 次のように述べる。「人が揺籃期にその多くの可能性の萌芽を有しているのと同様, 戦後労働運動史も, その出発期(1945 年〜1947 年) にすべての〈原型〉を有しているのではないか。それはいわば"未熟にして高貴な輝き" の瞬間でもあった」(24頁)。
次に, 「仮説二」は, 「電産史は争議史でもあった」とする。「十二月協定」の内容, さらには, 「戦後復興のカギを握る電力産業」における労働組合の影響力の大きさそのものも, GHQ, 日本政府の政策, 経営側の利害と真っ向から衝突するものであった。利害の衝突は, 11次にわたる賃金争議をはじめとする苛烈な労働争議として噴出することとなった。
「仮説一」は, タテ軸として本書を貫く一本の筋であり, 「仮説二」によって, 「GHQ・政府・経営側vs労働組合の対抗関係」をヨコ軸とした, 電産史の各局面における「構造的矛盾」をはらんだ歴史過程が分析される。

2 本書の構成と概要
以上の仮説の上に立って, 本書は電産史を画する4つの大争議を柱に, 序章に続く各章を次のように構成している。

第一章「十二月協定」(一九四六年)
第二章電産の結成(一九四七年)
第三章地域人民闘争(一九四七年〜一九五〇年)
第四章「レッドパージ」(一九五〇年)
第五章電産五二年争議(一九五二年)
第六章電産崩壊(一九五六年)
終章結論

各章のポイントを簡単にみていこう。「第一章『十二月協定』」で扱われるのは, 四大争議の主発点をなす「電産十月闘争」そのものではなく, その成果としての「十二月協定」の内容, 労使の争点が検討され,その後の「電産史の推移の前提となる〈原点〉」が明らかにされる。「仮説一」に関わる, この〈原点〉の確認を最初に据えて, 電産史の全体像を捉えようとするところに, 本書の最大の特徴がある。電産協の「三大要求」がほぼ全面的に協定化された「十二月協定」は, 賃金要求の中に労働時間をはじめとする労働条件改善要求も含まれていたので, 内容的には4 つの柱に整理される。第1 は,〈大衆のための電力〉論に立脚する「電気事業社会化(民主化)」, 第2 は, 最低生活保証の「電産型賃金体系」, 第3 は「退職後10年間の生活保証」の退職金, 第4 は1 日8時間・1週38.5時間労働の先進的労働時間制をはじめとする労働条件向上である。いずれも画期的な成果ではあったが, 多くの実施細目が「継続交渉」となり, これらが労使交渉の〈争点〉として残された。
「第二章電産の結成」は, 単一産業別組合としての電産結成にいたる経過と, 闘争目標, 闘争方式, 組織運営などにおける出発点の特徴, とりわけ内部矛盾の諸相が明らかにされる。闘争目標の特徴としては,生活保証給としての電産型賃金体系を維持するための,物価変動に応じた賃金スライドが不可欠であり, それはその後の労働争議の頻発につながっていく。闘争方式としては, 「職場闘争」「地域闘争」が重視された。
組織に内包された矛盾・対立としては, 単一組織vs企業エゴ, 共産派vs民同派, 統一賃金vs企業別賃金, 中央集権vs下部分権(地域闘争・職場闘争),中央集約闘争vs地域人民闘争などの要素が, 複雑に交錯して存在していた実態が明らかにされる。
第三章から第五章は, 労使の力関係の変化, 組合組織内の勢力交代の点で, 電産史の画期をなす3 つの争議の過程を詳細に分析している。
第三章「地域人民闘争」の時期は, 単一産業別組合としての電産の組織体制・戦闘力がいっそう整備され,共産派全盛の下で「産別会議の屋台骨を支える存在」となった。しかし, 共産派指導のもとで展開された「地域人民闘争戦術」は, 電源スト・停電ストなどの過激な戦術行使の頻発によって組織内に大きな混乱を招き, 共産派の凋落と反対勢力としての民同派による執行部掌握につながった。
続いて第四章が扱う「レッドパージ」の年1950年は, 「戦後日本の労使関係が〈労働者優位型〉から〈経営者優位型〉へと劇的に転換する」分水嶺をなす。
電産のレッドパージの特徴は, 「民同派が深く荷担していること」であり, これによって共産派活動家は一掃され, 民同派の主導権が確立することとなった。しかし, 同時に「職場労働者の労働組合からの忌避」「末端職制の会社への献身の雪崩現象」によって,「『十二月協定』を支えるべき主体(組合員) が弱体化」した。
「第五章電産五二年争議」は, 前年の1951年に電気事業再編成問題が「電力九分断」として決着し,「電気事業社会化」政策が雲散霧消した後, 残った砦の「電産型賃金体系」の切り崩しをねらう経営側との間で, 総資本・総労働の激突として闘われることとなった大争議を扱う。結果は, 組合の惨敗に終わって, 電産の「統一賃金」は崩壊し, 単一産業別組合・電産の存在意義そのものが形骸化した。
第六章「電産崩壊」は, 電力各社ごとの企業別組合への分裂が拡大する中で, 少数派に転落した電産が,組織統一への試行錯誤を行いながらも, 遂にそうした努力も実ることなく, 1956年3月に事実上の解散を決定するまでの, 電産史の終幕を描く。
「終章結論」は, 結局, 「十二月協定」の成果は,電産崩壊にいたるその後の10年間で, ことごとく後退することになったと総括する。それは, 同時に産業別組合による企業を超えた連帯が企業別組合にとってかわられる過程でもあった。ただし, 「最低生活保証を基本精神とする〈生活給〉としての『電産型賃金体系』」は, その普遍性の故に「なおも, 電力産業の地下深くに脈々として絶えることなく流れ続けることとなった」としている。

3 本書の意義と若干のコメント
本書の意義は, 第一に, 先行研究が到底およびえなかった, 「当事者の論理」に即した電産全史の記述的研究という未踏の領域に橋頭堡を築いたことであろう。実証研究の水準において容易に他の追随を許さない本書は, 今後の電産研究に豊かな示唆を与えるすぐれた歴史研究として受け継がれていくことだろう。
第二に, 社会科学的実証研究における研究者と対象世界の当事者との関係のあり方についても, 本書は深い示唆を与えてくれる。「当事者の論理」に迫るために著者が行った数多くの聞き取り調査, 膨大な一次資料の収集は, 当事者と著者の社会的関係が気脈相通じる親密さに達していなければ到底ありえない深さと広がりを持つものである。当事者の証言を引き出し, 一次資料の提供に協力を求める主体としての著者の存在は, 本文, 注, 「あとがき」の随所に登場する。「あとがき」では, 著者自身がかつて電力会社に勤務し, 対象世界の内部の人間であったこと, その時の職場での経験が, その後の電産研究の問題関心につながっていることも語られる。「本書は通常の学術書としてみればやや異質な記述の仕方をとっている」と著者は述べている。たしかに, 時にドキュメンタリー風とも感じられる記述スタイル, 表現主体としてしばしば登場する著者の存在, さらには対象世界への感情移入的表現,等は通常の学術書にはみられないものかもしれない。けれども, それは読者を対象世界に引きつける魅力となっていると同時に, 研究者と当事者との社会的関係の形成自体が研究活動の実践となっている著者の研究スタイルに, まさにふさわしい表現形態とも思える。
この他にも, 個々の具体的論点に関していえば, 例えば, 「電産型賃金を男女差別賃金の根元」とする誤解を正し, 電産がこの賃金体系の意義として「日本で初めて男女同一労働に対する同一賃金制が確立されたこと」と述べていることが無根拠の主張ではないことを, まさに「当事者の論理」に即し, 当時の社会状況の分析もふまえながら実証的に明らかにしていることなど, 本書の貢献は数多くあげることができよう。
以上のような研究書としての意義や貢献を離れて,評者にとって何よりも魅力的に思えた点は, 本書が対象世界の内在的理解を徹底的に追求した結果として,その奥行き, 広がり, 多様性を忠実に反映する読み物になっていることである。このような視点から本書を読むと, そこには意外な発見に充ち満ちた, 不思議な電産ワールドが広がっている。具体例をあげよう。77頁に掲載されている当時の記録映画の一コマは, 横断幕, たすきがけで自転車を連ね, 颯爽と「電産型賃金体系」の街頭宣伝に走る女性組合員の姿を記録している。この映像ほど雄弁に敗戦直後の開放的雰囲気と女性の積極的な労働組合への参加の有様を伝えてくれる資料は稀だろう。
もうひとつ例をあげると, 「電気事業社会化(民主化)」構想の立役者であり, 1947年参議院選挙の組織内候補として予想を超える大量得票による当選を果たした佐々木良作が, 同年5月の電産結成大会の挨拶の中で, 「私はあくまで電気屋の業界代表として闘います」(121頁)と述べたときの「電気屋」の世界はどのようなものであったのか。これも想像力を刺激する素材である。果たして, 電産の企業を超えた連帯の形成と, 「電気屋」としてくくられる職能的アイデンティティの存在は関係があったのだろうか。「何々屋」という表現は, しばしば観察される日本の職能的アイデンティティの表現形態であるが, このようなフォーク・タクソノミー的視点からの研究テーマをも示唆してくれるほど, 本書の懐は深い。
最後に, 産業別組合としての電産についての著者の理解に関して疑問に感じた点を述べてみたい。著者は,電産が「中央本部はいうまでもなく, 地方本部, 支部のレベルにおいても, 『日発』と各配電会社の従業員が企業の枠を超えてひとつの組織を構成している」点で, 企業別組合の単なる連合体にしかすぎない日本の産業別組織と異なるのはいうまでもなく, 「一般の産業別組合と比べても, 電産の方が単一化の度合いは深い」(10頁) と指摘する。けれども, 他方で「単一産業別組合・電産は全国的経営体としての『日発』を基礎的組織として成立していたのだから, これが解体されて九電力会社が発足すれば, 電産の組織形態は自動的に」「企業別組合の協議体」「日本に多い通常の単産」に移行する(342頁) とも分析されている。この点は,当事者としても意識されており, 「もともと土台の一部は企業の骨格を準用したもの」であり, 企業エゴを克服する「組合員の意識改革」が必要であるという民同左派リーダーの発言が引用されている(141-142頁)。
もし, 後者のような実態があったとすれば, 電産もまた企業社会の呪縛から逃れられない存在として, 企業別組合と同様の基盤の上にたっていたといえないだろうか。つまり, 「単一化の度合い」が企業組織に依存しているとしたら, それは一般の産業別組合より深い単一化を示すとはいえないのではないだろうか。いずれにせよ, 組織対象の企業形態のあり方が直接的に組合組織の変更を促すという実態は, 企業と組合の特殊な関係のあり方を前提にする。電産もまた, その前提条件から自由ではなかったといえよう。
なぜ, 「輝ける電産」においてすら, 労働組合の組織形態が企業組織の従属変数的傾向を示すのか。この問題の解明には, 本書が扱っている争議史の中での電産のハレの顔だけではなく, 平時におけるケの顔にもメスを入れる必要があると思われる。企業社会の現実の中に位置づけたときの電産の構造と機能, 財政, 人的資源の実態などの解明もほしい。アメリカの事例との比較も考えられよう。例えば, 全米通信労組(CWA) の事例がある。AT&Tにおけるローカルの会社組合が, 会社組織の中央集権化傾向への対応の中から, 集権的産業別組織へと徐々に変貌を遂げていった過程は, 本書と同様の丹念な聞き取り調査によって跡づけられている(Schacht, J. N. (1985) The Making of Telephone Unionism 1920-1947)。いわばニワトリからタカに変身した全米通信労組は, その後もニワトリに戻ることはなかった。何故なのか。電産研究の国際比較的深化は, 日本の産業社会の特質について豊かな示唆を与えてくれるように思われる。
以上は, いささか思いつき的な, ないものねだりかもしれないが, 著者の作風にかねてより魅せられている読者からの, 電産史研究第3巻への期待と受け止めていただけたら幸いである。