XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

小説 KAGEROU

KAGEROU

 記録的豪雨が過ぎ去ったと思ったら、一昨日明け方に福島県沖を震源とする震度5強地震が起こった。そして昨日八月一日の真夜中に震度5弱の地震駿河湾震源として発生した。東海地震との関連は低いと見られているが、不気味である。地球上の位置からして災害列島という宿命を負っているのだが、立て続けの自然の脅威には早く収まってくれることを祈らずには居られない。

 ポプラ社小説大賞を受賞した当時は、作者が若手俳優であったということもあり、さまざまな書評が書かれ騒然としていた。マスコミのお祭り騒ぎに巻き込まれるようで手に取ることを控えていたのだが、先日、書店に平積みされているのを見つけ、やっと読む機会を得た。
 読みやすい文体で一気に読んでしまった。
 最終章で目覚めた「私」は誰だったのだろう。身体はキョウヤなのであり、状況もキョウヤであることを示している。周囲もそのように扱っている。そこに存在する目に見える自分はキョウヤなのだ。人の生と死という視点で見ると、動いている、しゃべっている、笑っている、生きている自分はキョウヤである。しかし、記憶(思い)はどうなのか。
 意識を形作っているのは認識と記憶である。認識と記憶にズレが生じてしまった場合、どちらが優先されるのだろう。

 この物語は生体移植を扱っている。全日本ドナー・レシピエント協会という生体移植を斡旋する機関が出てくる。自殺希望者から身体を部品として買い取り、販売する機関である。命の売買ではなく命のなくなった後の肉体をリサイクルするのだという。
 法的には臓器の売買は禁止されているが、先日も歯科医師が自らの移植用腎臓を手に入れるため暴力団を使った事件がニュースになったところである。需要があれば法とは別のところで物事が進んでいくのが現実である。

 読後、囚われてしまったのは肉体と命の問題である。
肉体は有機的な活動を続けることで存在を続けることができる。その活動のバランスが崩れてしまうと機能不全を起こし、次第に存在を続けること自体ができなくなって死に至る。肉体の構成要素は無機質だけではないので腐敗し、自然界の法則に則り、自然の一部へと還っていく。
 これは肉体としての命のことなのだが、意識(記憶・思い)としての命はどうなのだろうか。脳の移植ができた場合には肉体とは別の自分が存在することになるのだろうか。
 老衰や病などで、また事故などで肉体としての機能が阻害されてしまうと身体全体として活動が低下し、意識レベルも低下、混沌とした中で死が訪れるのだと思う。肉体の循環機能がなくなることで意識そのものがなくなっていく。しかし、肉体の機能低下があっても循環機能を代替することができ、脳の機能を維持することができたら・・・・

 若手俳優が小説大賞を取ったという話題性以上のものを感じさせる本である。