60になって!

 生れ、1952年(昭和27年)戦争が終わって、まだ7年、物心ついた頃にはまだ戦争の傷跡が残っていた。片足を失った人や鉄砲玉がまだ残っているという人、空にはロッキードP-38(双発のアメリカの戦闘機)が飛んでいた。みんな貧乏だったな?そしてハナタレ小僧で小学校へ入学、その頃は爺さん婆さんが亡くなるし、自分も余り体が丈夫じゃなかったし、貧乏人の子だくさん、親父も苦労の時代だったろう?そして中学へ、3人の姉は集団就職で街へと働き行った。昔でいうなら口減らしかな?でも寂しかったな?多感な中学時代、へたくそだが夢中で野球に打ち込んだ。この時色んなことを学んだ。ティームをまとめる事、リーダーシップ、忍耐、貴重な中学時代だったと思う。行きたくなかった分校、先輩から連日殴られる、勉強にも身が入らない。しかし3年になって気持ちが変わり、(やらんといかん)勉強は場所じゃない、自分の気持ち次第と、なぜなら同級に本校の農業科、田原分校、日之影分校含めてダントツにトップは俺の同級(鞍岡出身)だったのだ。柔道も強かった。自分も何か残したかった。その自分長距離走に打ち込んで結構走れてた。ある日校内駅伝大会があった。1年生から4年生まで2ティーム位づつ(わしらは7人だったので1ティーム)1区は自分、2年にライバルがいた。こいつには負けられん、4Km、2区中継点前でスパート、かろうじて勝ったが、なぜか足が軽くそのまま走り続けた。(もうここまで来たら止められん、最後まで走ろう)そう思って、走り続け、全区間27Kmを走り通した。充実感。後に五ヶ瀬、田原、日之影3分校で「高千穂定時制」で高校駅伝県予選に出場、3区まで小林高校を抑えてトップだった。(田原と日之影に早いのがいた)そんな高校時代、ここでも大きく育てられたな?

「もう8時、そろそろ帰ろうかな、コップが待ってる」