樽をたたく―西宮市田中製樽工業所における樽職人の民俗誌―
武田千明
【要旨】
本論文は、兵庫県西宮市今津にある、田中製樽工業所をフィールドに、親方である田中啓一氏から、樽や職人の話だけでなく、彼の人生や培った技術、樽に込める思いなどを記した。本研究で明らかになった点は、次の通りである。
1. 灘五郷は全国でも有数の酒どころである。その1つの西宮には、昭和17年ごろまで45ほどの酒樽製造に関する業者があった。しかし現在は、西宮市内に田中製樽所一軒を残すのみである。そこの親方である田中啓一氏は日本でも数少ない、樽作りの工程すべてを熟知している樽職人である。
2. 和樽には、香り高く、柔らかく加工しやすい吉野杉が使われている。樽丸師によって吉野杉は、樽丸という材木に加工される。樽丸を組み立て、蓋と底を叩き入れ、竹箍で結いあげて樽は作られている。その樽に清酒を入れると、木香がうつり、まろやかな柔らかい味わいの酒となる。
3. 樽の底が中央まで上げてある樽のことを、上げ底樽と呼ぶ。関東では「田中型」と呼ばれている。その理由は、田中氏の父が考案した樽の形だからである。田中氏の結婚式で鏡開きをする際に、出席者全員で四斗樽の容量すべてを飲み干すのは不可能だと考え、見た目はそのままで容量のみ半分になるようにこの樽を作ったのである。最近の祭事ごとでは、この田中型がよく使用されている。
4. 樽屋は自社で樽を作るだけでなく、買樽も行っていた。買樽とは、夜に他の樽屋へその日にできた余分な樽を買いとり、翌朝に酒屋へ納品するという仕事である。樽屋はそれぞれ得意分野があり、得意分野の樽は買樽をしに来る樽屋へ売り、得意でない樽は他の樽屋へ買樽をしていたのである。
5. 樽には社会性と経済性の両面をもっている。田中氏が、裸の樽を使った商品を多く生み出すなど、樽に対して前向きなのは、樽の社会性を信じているからである。貯金箱や和樽椅子など、菰を巻いていない裸の樽を楽しんでもらえるような商品を多く生み出している。
【目次】
序章 ―――――――――――――――――――――――――――─―1
第1節 問題の所在‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2
第2節 樽とは何か‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2
第3節 田中製樽工業所と田中啓一氏‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥5
第1章 製樽に関わる人々――――――――――――――――――――――11
第1節 樽職人とは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥12
第2節 樽職人としての田中啓一氏‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥13
第3節 樽職人の言葉‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥17
第2章 一樽作りの工程―――――――――――――――――――─29
第1節 樽の作り方‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥30
(1) 杉から樽丸へ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥30
(2) 樽丸からクレへ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥33
(3) ばらばらのクレをひとつに‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥34
(4) 底、蓋はめ込み‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥36
(5) 箍を結い、はめ込む‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥37
(6) 検査‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥40
第2節 樽作りの道具‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥41
(1)カンナ、つっこぐり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥42
(2)正直台、銑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥43
(3)蓋・底を作る道具1‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥44
(4)蓋・底を作る道具2‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥46
(5)検査‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥48
第3章 酒樽から[和樽]へ―――――――――――――――――――――─81
第1節 和樽太鼓‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥83
第2節 ため樽‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥84
第3節 デコレーションバレル‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥84
結語―――――――――――――――――――――――─――――――――――93
第4章 付論―――――――――――――――――――――――97
第1節 三田の加茂神社[稲引き・樽引き神事]‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥98
(1)稲引き・樽引き神事とは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥98
(2)祭りの流れ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥98
第2節 樽酒の作り方‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥100
文献一覧―――――――――――――――――――─――――――――――――112
【本文写真から】
樽を製作する田中啓一氏
【謝辞】
本論文の執筆にあたり、多くの方々に調査へのご協力をいただきました。
田中製樽工業所の親方、田中啓一氏、保子氏は調査の依頼を快く引き受けてくださり、お忙しいなか時間を割いて、樽に関する詳しいお話だけでなく、道具や貴重な資料も見せていただき、たいへんお世話になりました。加茂神社では、ウエダ氏をはじめ祭り関係者の方々には、関係者の一員として祭りに参加させていただき、たいへん貴重な経験をさせていただきました。
以上の皆様の協力にしには、本論文を完成することはできませんでした。お力添えいただいたすべて方々に、この場を借りて心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。