文化的優劣について

なんというか酔っ払って書いてるんでその議論の正確性とかやらはとりあえず置いといてここ最近考えてたことを書いとくとする。
いわゆるオタクとか非モテのファッション論の特殊性についてである。それが脱オタにしろ非モテを固持するにしろ、彼らがファッションを語るときにその脱目的性(つまりはファッションやオシャレってのはただ楽しいからするという観点)が捨象されるという特徴がある。どちらの立場にしろ、ファッションという文化をモテるための手段という点でしか議論されてないのが非常に不思議に思っていた。
なんとなく過去の歴史を考えてみると、これは80年代的な差異の多様性による文化的平等といった話のアンチなのではないかと思う。80年代のファッション論とか消費論が今考えれば明らかに楽観的だとは思うが、現代のファッション論、ひいては趣味論がその俗流マルクス主義的なところにも行き過ぎたところを感じる。つまりはオタク趣味や非モテな人々が発するファッション論が、趣味の選択の自由というものを全く信頼していなくて、往々にしてその構造的必然性を主張するのである。
これは文化系女子とかいった議論(または腐女子)にまつわる議論においても同様な気がする。自らの文化的優越性を主張するために、自らのファッション的な劣等感や恋愛における劣等感を主張する議論は、モテたりオシャレであったりすることと、オタクであったり文化的であったりすることが両立しないということを自明視しているとしか思えない。
なんでオサレだったりモテたりしたら文化的だったりオタクであったりしないのか、そのことについて考えるのが現代の文化的趣味の政治学に必要だと思ったりするのだ。
ちなみに俺の知ってる文化系女子はみんなかわいいです。