スピリチュアルなふたり

おれは気のおけない知人と飯を食うのがとても好きだ。そしてひとりで飯を食うことも非常に好きだ。結局飯を食うのが好きなだけなのだ、という気もしないでもないが、おれは今夜もひとり学食で楽しく飯を食っていた。坂本龍一に言わせれば、ひとりで飯を食うことは許しがたく見苦しいことらしいのだが、おれは坂本龍一の機嫌を取るために生きているのではないし、通称教授とはいえまさか坂本龍一が学食に現れるはずもない。
したがっておれは坂本龍一の目を気にすることもなく、ひとり掻き揚げうどんをすすりながら上機嫌だった。ひとりで飯を食うときには、余り行儀がいいとは言えないが、本が欠かせない。俺は汁が文庫本に飛び散ることも気にかけず、南方の熱帯林を勇往邁進するある家族の話を読み耽っていた。夫が鰐の群れの中から妻を助け出す、ひとつの見せ場が終わり、胸をなでおろしたと同時に、おれにあるひとりの男が声をかけてきた。どうやらおれの向いに座りたいらしい。他にも空席はいくらでもあるのに、おかしなやつだ、と思いながらも、おれは、どうぞどうぞ、と愛想よく男を前に座らせた。俺は再び本に目を落とすように見せかけながらも、このおかしな男が気にかかり、ちらちらと上目遣いで男を観察していた。男の年は二十歳かそこら、よれたジャージを来て、無精ひげをはやしている。男は売店で買ってきたと思われる紙袋に入ったぶどうパンをテーブルの上に置くと、それに向かい居住いを正し、手を合わせ、祈るようにして体を揺らし始めた。おれは悪い予感が的中した、と思った。お人良しに見えるのだろうか、おれはひとりで行動していると、大抵、この手の人間につかまるのだ。自動車学校で最初に声をかけてきた男はおれを親鸞の名を借りたある宗教に誘ってきた。また、新宿をひとり歩けば手相師が次から次へと群がるほどの人気を博す。どのみちこの男にも、おれは地方から出てきたばかりで友人もいない孤独な学生に映ったのだろう。
おれは腋の下や掌に悪い汗をかきながらも、男と決して目を合わせないように観察を続けた。男はぶどうパンの紙包みを開くと、顕わになったぶどうパンに対して、再び手を合わせ体を揺らした。おそらく今夜の糧を与えてくれた神やら大自然とやらに感謝の祈りを捧げているのだろう。おれは掻き揚げうどんも文庫本も投げ出してこの場から走り去りたくなった。いや、このおれとしたって幼い頃に躾けられた、食事の前に手を合わせる習慣が薄れていることには良心の疼きを感じているし、うどんや掻き揚げやねぎやわかめに対する感謝の念も持っているつもりだ。だが、他の人間が食事をしている席に押しかけてまで、ぶどうパンに祈りを捧げたりするこの男は常軌を逸して、そう、スピリチュアルだ。
この男がおれに再び親しげに話しかけてくるのは時間の問題であり、どうでもいい世間話で場を和ませた挙句に、精神世界への片道切符を差し出してくるのは目に見えている。あちらの世界では豊饒な自然の中で魂を振るわせる澄み切った心の人間たちが毎日神に祈りを捧げており、そして、おれは汚れきったこの文明社会や邪悪なる科学知の探求を捨てることになるのだ。とんでもない、何とかこの男を切り抜け、研究室まで無事に戻らなければならない。先ほどまで読み耽っていた小説の舞台である、人喰い蛮族や危険な獣の徘徊する密林の中に急に迷い込んだような気分におれは陥った。と同時に、おれはこの本こそがこの場から生還するための武器であることに思い至ったのだ。
おれは胸を張って、誇らしげに文庫本を高く掲げ、彼の目の前に突き出すようにして再び読書を始めた。そしてここぞとばかりに目をぎらつかせながら、本に夢中になっていることを男に対して誇示した。男は目の前に差し出された文庫本の表紙へ一瞥を送ったと同時に、目を丸くして、おれの顔と表紙との間を交互に、何度も何度も視線を泳がせた。そして狼狽したように、ぶどうパンを一口齧った。形勢が逆転した、とおれは思った。そして悠々たる態度で残りのうどんをすすり、つゆまで飲み干してから、その場を何事もなく立ち去ることに成功した。男は呆然としてぶどうパンを見つめていた。
 
おれが読んでいた本は、筒井康隆ポルノ惑星のサルモネラ人間』 (グロテスク傑作集) だったのだ。
 
おそらくこのような品性下劣なタイトルの小説を読む人間にはスピリチュアリティの欠片もなく、天国への扉は開かれるはずもない、と彼は思ったのだろう。だが、彼は見かけだけの汚穢に囚われて、真のソウルメイトとなるべき同士を失ったともいえる。なぜならおれほどのスピリチュアリティを備えた人間はこの大学には毫末もなく、その精神を幼少時から薫育したのは、他でもない、筒井康隆の書であったのだ。それにしても、筒井康隆はどんなときでもおれの味方であった。
 
おれは研究室に戻ってから、『ポルノ惑星のサルモネラ人間』を机上に祀り、手を合わせ体を揺らして祈りを捧げた。