書物蔵

古本オモシロガリズム

古本の消息について:ゆっくりと探し当てる、そんな愉快

このまへ紹介した古本本
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20130513/p3

『歴史の消息について』の後半、第二部「書物のこちら側」から、古本論の核心部分をご紹介。

日本では古書店群が、真に公共性を支えてしまってきたこと

いきおい、そのような規格外の「昔のこと」をさぐるためには古本を漁らなければならなくなる。この国の古書市場というのはなかなか大したもので、実際これは世界に誇り得るものだと思うのだが、書物の集積体としての公共の図書館に近い役割を担っている。(「古書市場という書庫」p.139-)

まあこれは、主として雑誌の欠号補充や趣味本をバカにしておろそかにする、日本図書館学のイデオロギーによるものでもあろうけれど。
昭和20年代は絶対的窮乏といういいわけのもとに、米国図書館人古書市場の活性化を、単に遅れているとバカにされるだけで済んでたけど豊かな日本になっても。
英国で「エキセントリック・マン」といはれるやうな種類の人間が集めた個人コレクションをタネにして、図書館が(公共でも大学でも)、蔵書の幅を広げていく、といったことが、豊かになった日本で行われなかった。
むしろ、「これは本ぢゃない」とか、「この本には落書き*1がある」とて、受入局のハンコ捺し屋が、排除しやう排除しやうといふことばかり、やってきた。
日本のバヤイ、人文社会系で新しい研究は、古本屋を使わねば、できぬ(*'へ'*)

思ふて学ばざれば、すなわち、あやふし

過剰に語られる問題の発見能力や独創性、構想力といった部分にしても、一般に思われているのとは逆に、むしろそれら情報収集・検索能力といったメタ・レヴェルのスキルとからみあったところでしか立ち上がらない。情報収集・検索能力の裏付けなき”独創性”などそのままではただの思いつき、放ったらかせばろくでもない妄想へと脹らみ、いくらでも陰謀史観の培養基になってゆく。

「思うて学ばざれば、すなわち、あやふし」ですな(゜〜゜ )

ただ、〜古書市場特有の問題というか、特殊性はいくつもある。まず、ここでも検索の仕掛けが悪く言えば原始的、よく言えば人間的。とにかくもの言いとしてでなく現実として、本当に「足で稼ぐ」しかない。

本当に足で稼ぐわけね(σ^〜^)σ

この古書市場のアクセスのしづらさ、検索効率の悪さというのは、いきなり熱帯雨林にほうりこまれた白人植民者のような、それこそ『地獄の黙示録』並みの恐怖ですらあるかも知れない。

たしかに、わちきが学生のみぎり、せっかく古書会館の2F(当時)まで行きながらも、なんだかわけらからずに、古本屋ばかりに行ってしまった事態は、「熱帯雨林にほうりこまれた白人植民者のような」ものであった。古書の熱帯雨林といふか、サルガッソー海

マングローブの登り方もなくはない

実は、どのように古書のマングローブにとっかかりをみつけて登っていくか、という方法論もあるんだけどね。当時はオトモダチにそんなヤツをらんかったんで。
いまは、古書展を紹介するような本もあるし、古書展でも、たとへば明日、神保町の古書会館で開かれるとかいふ、「地下の古書市」のも、しばらく前に開発された入門者向け古書展「地下室の古書展」の後継にあたるものみたいだから、行ってみそ。
http://chikaichi.exblog.jp/
話もどすと。。。

「ゆっくりと探し当てる、そんな愉快」

けど、こんな古本探索の面倒くささが、むしろ良いのだという論も展開する。

古本の収集家たちの横のつながりがもっと活発になって、そのへんの本ならどこそこの誰それが結構持っているよ、といった情報がもっとおおっぴらになればいいのに、と思う時もないではない。だが、じきに、いや待て待て、と思い返す。これはそのような検察についての仕掛けがおおぴらでないからこそ密かに、自分ひとりの足と鼻とでゆっくりと探し当てる、そんな愉快もあるわけで、

「そのへんの本ならどこそこの誰それが結構持っているよ」といった話は、たとえば1980年代の「古典SF」の人々が形成していたネットワークがそうであろう。こういった人脈というのは、どうしても場所の限定(大都市圏にいなけりゃあむずかしい)があったり、時間や偶然といったものに左右されがち。
たとへば、このわちきとて、趣味の出版史がらみの人脈は、2004年に古書趣味を復活させてのち、図書館本収集のかたはら、近代書誌にもちょっかいをだすやうになった2005年ごろ以降、だんだんとつくられ(といふか、自然に生成した感じ)、こんなんならあの人かなぁ、というのがなんとなくわかるようになったのは、ホント、ここ2、3年のこと。つまり、発起して5、6年はかかるということかしら。
いま思ふと、古書会館に日参(ん?(・ω・。)「週参」か?)したことが一番、環境的には必要だったやうに思ふが、それと人との出会いという偶然が必要だったわけで。。。いまでも、最初、M先生との出会ひをよく思ひ出すよ。だって、三省堂アネックス5Fの古書モールで待ち合わせしたら、さっそく出てこなくて出会へなかつたといふ出会ひ(σ^〜^)

「日本の古本屋」で古本の探し方も変わった?

ただ、この本が出たのはもう一昔まへ1999(平成11)年のことで。
事態は転換し、「日本の古本屋」が充実してきたのは古書ずきなら知ってをらう。

それこそ電子メディアのデータベースか何かでたちどころに全国の古本所蔵関係が検索できるようになればなったでかなりうっとうしいものだろう。

まあ、大月先生は、売品としての古書店在庫だけのことではなく、個人所蔵の古本のことも想定しているようなので(文章は、古書収集家が病気で倒れたら古本屋が殺到し、「直る病気も直らなくなる」、ぐらいの笑話につづいている)、事態はそこまでは進展してないという見方もあるが(^-^;)

*1:古くから古典書誌学には「書き入れ本」なる術語があるし、近年は「痕跡本」なる概念も提唱されている。また、国立図書館のおバカが「蘭書改装事件」てふ資料破壊を行ったことは、日本資料保存史上、象徴的なものである。