「東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?」〜健全なジャーナリスト〜

新保信長さん、という物書きがいまして、私の灘高時代の同級生です。お互い、マンガだのアニメだのが好きだったので、多少なり親交もありました。彼が、東大文学部卒業後、フリーの編集者になり、西原理恵子さんの担当編集者になって、ジャーナリスティック・マンガの傑作「できるかな」を作る。このマンガに、「阪神キチガイの担当編集者、シンボくん」というキャラクターで登場、無茶苦茶イジられ、一躍、「そのスジでの」有名人に。でも、村上世彰みたいな著名人を輩出していない我々の学年の中では、最も世間的に顔と名前が売れている人かもしれん。

そのシンボくんがある日、突然メールしてきて、「取材をしたいんだが」と言ってきた。「今度、こういう本を出すんだが、東大卒の一般企業のサラリーマンということでコメントが欲しいんだ」とのこと。それがこの「東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?」です。今度、本が完成したから、ということで、出版社から送られて来ました。早速読破。これが滅法面白い。

シンボくんの本は他に、彼の出世作になった「笑う新聞」「もっと笑う新聞」を読んでます。「サブカルチャー」に分類されるんだろうけど、他のよくあるサブカルチャー本みたいに、世の中の常識を極端な非常識で破壊する快感を追求するような、どこか病的な視点がない。すごく健全でバランスが取れている。そういうバランス感覚のある人の視点から見た、「なんだか、この世の中ちょっと間違ってないかい?」という指摘を、ほどよいギャグを散りばめながら、意外と正面切って正々堂々とやっている、その姿勢がとても心地よい。

東大生が、自分の大学のことを語るときに、「一応、東大です」、と「一応」をつけてしまう心理や、その背景にある世間が抱いている「東大」のイメージについて分析していくうちに、東大を頂点とする学歴ヒエラルキーの価値観に強く強く縛られた日本人の精神構造が見えてくる。既にそんな学歴ヒエラルキーは実体をなくしているにも関わらず、未だに強固に存在している「学歴」=「東大」崇拝。そういう周囲の視線に過剰に反応したり、戸惑ったりしながら、「一応、東大です」と言ってしまう東大生自身が、「東大イメージ」に囚われてしまう自縄自縛の滑稽さ。

世の中のいわゆる「東大本」や「東大ネタ」が、強固に出来上がった「東大イメージ」からいかに脱却できていないか、その書き手自身が、学歴至上主義を否定しながらも、どれほど学歴信仰に囚われているか。でもそれをただ批判していくだけじゃなくて、常にユーモアのオブラートでくるんで笑い飛ばしているシンボくんは、実に軽やかで健全に見えるんだよねぇ。先入観に囚われないデータ分析、精力的な資料の読み込みと、題材に対するアプローチはすごく緻密なのだけど、いちいち笑える欄外の注釈や、とぼけた文章に何度もニヤニヤさせられちゃいました。実物のシンボくんも、病的な阪神ファンではあるけれど、立花隆みたいな病的なオーラは出してない、ごくごく普通の、ちょいワル系のかっこいい兄ちゃんです。

ちなみに、この本の中に出てくる、大手通信会社勤務の東大卒サラリーマンが私。やたらと自虐的なセリフばっかり並べていて、最後には太宰治呼ばわりされております。一方で、「東大卒と見られているなら、それだけのアウトプットを出せばいいんだろ」と前向きに突進していく東大卒スーパーサラリーマンや、「天下国家のために」と理想を熱く語る東大卒の官僚なんかが登場していて、並べると、自分の情けなさが際立ってしまう。だからといって、「明日から生き方を変えるぞ!」なんて前向きになれないところが、太宰治と呼ばれる所以だよねぇ。とほほ。こんな私で、スミマセン。