レポートとコピペ

 日が変わったあたりでさて、と追記してみる。
 大学のレポートのコピペ問題[Artifact@ハテナ系]

 関連のトラックバックを見て思ったのだけれど、今のところ関連する記事・エントリーは2種類に大別されるような気がする。第一に(大学関係者側の立場として)「こういうケースが多く見られる。大学側はいかにこの問題に対処すべきか」というもの。もう一方は(学生・他者側の立場として)「こういうケースはありえる」というもの。両者は結局のところ近似値として現象の存在を肯定している。そしてこの現象に対する価値評価が肯定的なものであれ否定的なものであれ、大学授業におけるレポート(作文)の必要性そのものにはあまり言及していないようだ。

 ふと思ったのは、大学授業におけるレポート(作文)は必要なものなのか否か、ということ。むしろそれは不要なものではないだろうか、大学における学習評価の手段として作文を用いることには問題が無いか、ということ。

 これまで作文を行う際には、引用元のテクストの再利用の難しさという要素が不可欠な前提となっていたように思う。「引用元のテクストの再利用の難しさ」というのは、たとえばひとりの学生が目を通すことのできる書籍・論文の絶対数の少なさとか、目を通したテクストを咀嚼することの難しさ…たとえば手軽にコピーなどできる時代ではなかったためいちいち筆写するとか…といった状況要件。
 今の世の中、少々まとまったテクストなんていくらでも手に入ってしまうし、どんな貴重な古書のテクストだって極東の島国にいても読めてしまう。そうするとかつて貴重なものとされていた価値観、つまり「そのテクストを知っているということ」そのものに価値が生まれる、という価値観がゆらぐ…それが現代ということになる。

 大雑把な例で言うと、現在は小学生であっても『アーサー王の最期』の原文とか、ガリアベルギカで発見されるローマ時代の墓碑とか、1300年のコブレンツ市の「諸規約」を目にすることがたやすく可能である、ということ。そして自身が原文を読めなくても、日本語の形で受け取ることすらたやすい、ということ。

 そうなるとコピー・ペーストのタブー、という点に関しても、ただモラルの問題として処すべき問題とはいえないと思う。
 最初に大別した「2種類の態度」のうち、私の関心のあるものとして前者にのみ関連付けて提起するならば、「大学における学習評価の手段として作文を用いることには問題が無いか」ということにつきる。そもそも中高生の学習内容に作文技術指導は含まれていなかっただろうか。あえて大学機関の学習カリキュラムに作文を残す必要はあるのだろうか。
 論理構成を秩序立てて考えさせるのが目的ならば、現在は作文よりもむしろ(たとえば)図表によるプレゼンなどのほうが有効なのではないだろうか。自家薬籠中のものとされていないテキストの塊は、いまや無限に生成されてしまうのだから。

 もちろん図表もまたコピペの対象になる存在ではある。だけど、一文字ずつ切り取ることのできるテクストとは異なり、レポートの内容として取り込むためには編集が(より)必要になること。そして編集させることそのものが、究極的にはレポートという課題を課す行為にとってプラスになりうるのではないかと思う。


続きあります。

レポートとコピペ(2):蔵書量と知的生産量(2005-08-29)