『統一的革命綱領の定義に向けた予備作業』 訳者改題

 『統一的革命綱領の定義に向けた予備作業』は、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌第5号の「シチュアシオニスト情報」に書かれているように、1960年7月20日、〈社会主義か野蛮か〉グループのピエール・カンジュエールとSIのドゥボールの校訂による「資本主義と文化に関する資料」として発表された。
 全体で12ある断章を、ドゥボールとカンジュエールがどのような形で執筆したかは不明だが、おそらくいくつかの部分は最初は分担して書かれたと思われる。例えば、「プロレタリアート」や「労働」、「物象化」など〈社会主義か野蛮か〉の文体と用語法がかなり色濃いⅠの1、3、4、Ⅱの1などはカンジュエールの、また「スペクタクル」の社会について述べたⅠの6、7、8、革命運動を祝祭としてとらえ革命運動それ自体が「実験的運動」、「自由な生活的実践」とならねばならないとするⅡの4などはドゥボールの筆の跡が濃厚である。だが、それらも両者の議論の上に推敲を重ねられ共同の文書として発表されたと考えるのが妥当だろう。というのも、この時期、現代資本主義の質的変化の中でマルクス主義の批判的検討から出発して「余暇」や「消費」の問題に関心を寄せるにいたった〈社会主義か野蛮か〉のとりわけカストリアディスの問題意識(カストリアディスが、現代資本主義を分析する道具としてもはや役に立たなくなったマルクス主義を捨て、「現代資本主義下の革命運動」を発表したのは1960年12月のことである)と、「状況の構築」の実現のために芸術至上主義派を切り捨て「日常生活批判」を武器とした社会革命の側面を押し出しつつあったドゥボールらの問題意識がかなり接近していたからである。
 また、この共同綱領的な文書が〈社会主義か野蛮か〉とSIのそれぞれのグループでどのようなかたちで利用されたかも不明である。だが、1960年という年がそれぞれのグループにとって組織的・思想的な転換点であったことを考えると、この共同綱領の試みの意義は大きい。SIは60年の第4回大会で組織形態を大会と中央評議会という形態に改めたが、そこで採用された「評議会」という組織形態は、すべてではないにせよ〈社会主義か野蛮か〉が常々唱えていた「労働評議会」にある程度影響されていると考えるべきだろう。ただ、〈社会主義か野蛮か〉の「労働評議会」があくまで「労働」──人間的な「労働」であっても──の「管理」のための評議会であるのに対して、シチュアシオニストの「評議会」は、労働と余暇が分割されない「遊び」の実践のための評議会、実験的な生活のための「評議会」であったという違いは無視できない(そして、このことが理由で、後に〈社会主義か野蛮か〉とSIは互いに離反してゆくのである)。〈社会主義か野蛮か〉も、60年は組織内部での分岐が現れた年である。〈社会主義か野蛮か〉のグループ内部では、すでに1958年夏に、一切の党や指導部の役割を批判するクロード・ルフォールらの少数派の脱退を経験していたが、1960年にはド・ゴール体制の性格づけとそれに対する闘い方をめぐる論争が表面化した。ド・ゴール体制を新資本主義と位置づけ、労働者の生活水準が向上するなかで伝統的なマルクス主義のようにプロレタリアートのみに闘争の主体を限定するのではなく、若者や女性を含めた広範囲の者を結集すべきで、闘争の場も工場から日常生活の場全体に拡大すべきだとするカストリアディスらと、依然としてマルクス主義固執するリオタールらとの間の分岐は、その前年から始まっていたが、60年のカストリアディスの「現代資本主義下での革命運動」の発表によってその亀裂は大きく広がったのである。(リオタールらは結局、1963年7月に脱退する)。
 〈社会主義か野蛮か〉が、誰もが余暇と消費を享受する現代資本主義での闘いを考えるとき、SIが行ってきた「統一都市計画」や「日常生活批判」などの文化の戦線での闘争を無視することはできないだろう。SIもまた、「状況の構築」というその中心任務を社会全体の変革に結びつけようとするとき、組織の問題として〈社会主義か野蛮か〉を代表とする「評議会」運動の考えを取り入れることを促されたのである。