コンピュータ屋の見た脳と心(7)

30年ほど昔のことだが、山口百恵なるアイドル歌手がいた。確か、「ひと夏の経験」というタイトルの歌だったと思うが、歌詞「あなたに私の一番大切なものをあげるわ」が人口に膾炙した。記者が百恵ちゃんに質問をした。「私の一番大切なものをあげるて何ですか?」。彼女は、平然と答えた。「こころです。」
 その、「こころ」とは何か?ホーキンスの説くところを追ってみよう。
 
 「こころ」を知るためには「意識」を知らねばならない。
 彼によると、「意識とは宣言的記憶」である(宣言的記憶とは、思い出して他人に話すことができる記憶、つまり、言葉での表現が可能な記憶)。以下のような思考実験を示している。

 今日という一日を過ごし、明日の朝に目覚めたとしよう。だが、まさに目覚めた瞬間、スイッチが押され、24時間の記憶が消されたとする。前日のことは、もはやまったく覚えていない。脳にとって、昨日という日は存在しない。誰かに今日が水曜日だと教えられても、反論するだろう。「いや、今日は火曜日だ。間違いない。時計の日付がおかしいぞ。今日が水曜日だなんてとんでもない。どうしてこんないたずらをするんだ」と。だが、火曜日にあったという誰からも、昨日は一日中意識がちゃんとしていたと告げられる。顔を突き合わせて一緒に昼食をとりながら、歓談したと言う。覚えていないのか?そう聞かれても、そんなはずはないとしか答えられない。ついに、昼食をとっているところのビデオを見せられて、だんだんと昨日があったことを信じるようになるが、それでも記憶がない。・・・昨日の時点では、たしかに意識は存在していた。いま確信が持てないのは、宣言的記憶が消えたからだ。
(あらゆる記憶の正体は、ニューロンをつなぐシナプスの変化だと考えられるので、この変化を元にもどす方法があれば、こうした実験は可能である。)

 この思考実験は、日常に使われる「意識」が宣言的記憶の形成と同じ意味であることを、表している。
 この「意識」(記憶)の中の自分が「こころ」である。
 人間は行動する時、過去の同じ行動の記憶を呼び起こし、取りつつある行動の結果を予測する。その時、過去の記憶の中の自分が、今、一緒にいるかのごとく感じられる。この「過去の記憶の中の自分」こそ「こころ」なのだ。
 この思考実験中、昨日は「記憶」が存在しない。「こころ」も、存在しない。
 「こころ」は過去の記憶を蓄積する際、ニューロンのつなぎ方で生まれるものである。(続く)