爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「満州移民 飯田下伊那からのメッセージ」飯田市歴史研究所編

長野県下伊那地方から戦前の満州移民を多く出し、その多くが引き揚げの際に亡くなったと言うことは聞いたことがありましたが、詳細についてはよく判っていませんでした。それを実に細かく記されている本です。

飯田市歴史研究所というのはどうやら飯田市の正式な組織のようです。メンバーには市外の研究者も含まれているようです。

満州移民というと終戦直後の引き揚げの際の混乱のなかでの集団自決や殺害、そして子供や女性が中国人に引き取られた結果、残留孤児などとなってその後帰国するようになったことはよく言われますが、なぜそこに出て行ったのかということを正確に記されていたものはあまり読まれていないように思います。
その意味でこの本の移民前史という部分は非常に興味深いものです。
1920年代にアメリカ経済が急速に発展することにより、シルクの靴下の需要が爆発的に増加しそれの生産が日本の特に南信地方で盛んになりました。農村でも養蚕に転換する農家が増加しましたが、その直後の大恐慌で一気に需要が減退し養蚕産業も窮地に立たされます。
そのような状況打破を狙い、満州に日本人を配置してソ連に備えると言う国策とも結びついて開拓団を送り出すと言う動きが強まります。もちろん全国的に募集はされたのですが、特に下伊那地域から多く出て行きました。最終的には8300人に上ったようです。
その中には一家で渡った人もいましたが、青少年が渡り、その後花嫁としていった女性も多かったようです。また、その後の景気回復で希望者が減ったため割り当て数をこなせずに無理やり行かせたという事例も頻発したようです。

ただし、開拓団とは言ってもその実態はすでに中国人が耕作していた農地を強制的に取り上げて日本人に分配したというもので、現地からの反発は激しいものでした。そのために下伊那の村の中にはその実情に気付き移民割り当てに従わなかった村もあったようです。しかし、ほとんどは国策ということもあって進んで従ったようでした。

しかし移民開始からしてもわずか10年あまり、最後に渡った人などは行った直後に日本が戦争に負け、軍隊も逃げ去り開拓民は無防備のまま放り出されました。この辺の状況については他の本でも書かれているところですが、改めて過酷過ぎる状況であったことが分かります。結局8300人のうち4000人近くが命を落としてしまいました。残留婦人・孤児として帰れなかった人々も多数でした。

なんとか生きて下伊那に戻ってこられた人々も故郷で楽に暮らせるわけではありませんでした。もともと故郷でも暮らしが苦しくて渡満した人が多く、その際家財もすべて処分していったので帰ってきても何もなく、家族も終戦後の厳しい経済状態で面倒を見られる状態ではなかったということです。そのため、国内の未開地に再開拓で入植した人も多かったようです。しかし、満州のようなすでに農地となっていたところに行くのとは異なり、本当の未開地ですので、まともに農地となることもなくあきらめた人も多かったようです。

敗戦時の集団自決だけが悲劇ではなく、最初から最後まで、現在まで悲劇が続いており、正当な保障も何もされていないということがよく判りました。