蕩減復帰と責任分担

蕩減復帰したのちにも、責任分担が残っている。(『御旨の道』Ⅰみ旨について・二 復帰・復帰の心情)

短いけれど、原理を学んだ者にとっては深い御言葉ですね。
私はきょうこんなことを考えました。
「メシアはなぜ地上に降臨されるのか?」
言い換えれば、
「メシアは何のために必要なのか?」
という問いです。
メシアとしての文鮮明先生の生涯の路程をたどってみると、一つは人類に「祝福(原罪清算と血統転換」をもたらすこと、もう一つは「原理解明および宣教、宣言、宣布)」という、二大事業をなしてこられたといえるのではないでしょうか。
原罪清算、血統転換(“救い”や“許し”と表現してもいいかもしれません)としての祝福は、ある意味では一方的な行為です。
堕落人間の苦労や努力の対価として与えられるものかというとそうでもありません。
み旨の道で苦労し、努力することの意味は大いにあるわけですが、原罪清算および血統転換の主体は誰かといえば、堕落人間自身ではなく、メシアであると考えます。
ゆえに、祝福は一方的与えられる恩賜であるということです。
これはもう、何事かの対価として受け取るというよりも、ただただ感謝して受け取るしかありません。
解明された原理、御言葉はどうか。
これも、決して堕落人間が到達しえない領域において発見され、解かれた普遍的真理であるという点で、御言葉を頂けたことにただただ感謝ではありますが、これを受け取ったからといってその目的が自動的に成就するわけではありません。
原罪清算、血統転換という祝福には、もう一つの側面があるのです。
祝福には「み旨成就のための人間の責任分担」が伴うということです。
「責任分担」。
美しくも、恐ろしい原理の御言葉です。
「祝福には責任が伴う」とはこのことです。
そのことを知って祝福に与るべきでしょうし、先に祝福を与ったのなら、その後、原理をしっかり学んで、その示すところの責任を果たしていかなければならないでしょう。
ユダヤキリスト教的に言えば、「祝福とは、神との契約である」といういうことになるのかもしれません。
福音を受け取った者が行くべき道がどのような道であるのか。
メシアと出会うことの意味、出会ったということの意味、そして、メシアと共に行くということの意味、これらの内容を改めて深く考え、そのことの意味を自覚し、その意味に応える生き方をしていかなければならないのだと思わされています。

明日、文鮮明先生の聖和式から40日を迎えます。



若き日の文鮮明先生