善と悪

善は、自己を中心としたものではない。人のために事故を犠牲にすることである。
悪は、自己を中心としたものであり、自己のために人を犠牲にすることである。
(『御旨の道』1・一 み旨、2 善と悪 98)

宗教は善と悪を規定します。
だとすれば、善とは何か、悪とは何かを規定しない宗教は宗教としての使命を果たせないということになります。
宗教が世俗化すれば、善と悪の境目が曖昧になります。
宗教の世俗化は堕落人間の救済の道を阻むことになります。
ゆえに、宗教は救いの摂理を行うことができなくなってしまうのです。

文鮮明先生は真の愛の人であり、許しの人です。
しかし、善のためにはどんな犠牲も厭わず、悪に対しては徹底的に分別するのが文鮮明先生です。
宗教生活、信仰生活とはどのような生活であるかというと、『原理講論』には、以下のように記されています。

信仰生活は、自身を供え物の立場に立てておいて、善と悪に分立させ、神が喜ばれるいけにえの供え物としてささげる生活である。ゆえに、我々が常に、神のみ旨を中心として、自身を善と悪に分立させないときには、そこにサタンの侵入できる条件が成立するのである。(『原理講論』後編、第一章、第三節(四)アブラハムを中心とする復帰節理が我々に見せてくれた教訓)

善と悪の見分けがつかなくなることは信仰生活の崩壊を導き、宗教生活の破綻に通ずるということです。
恐ろしい話です。
何が善なのか、何が悪なのか。
正に、善悪をはっきりと分別できるかたこそ、メシアと呼ぶべき存在なのでしょう。
だからこそ、メシアは神様と堕落人間の仲保となり、地上から天上への懸け橋となるのです。
人類を天の国へと導き、案内する縦的なはしごがメシアなのです。

「ために生きる」人生哲学は、真の愛の哲学であり、同時に、善の道に続く生き方です。
自己を中心とするのか、他者を中心とするのか、ここに善悪の分岐点があるのだということを信仰者として、宗教者として改めて肝に銘じたいと思います。



善と悪がはっきりと分かる文鮮明先生