苦悶する組織

テレンス・ディール/アラン・ケネディー『シンボリック・マネジャー』(城山三郎訳)岩波同時代ライブラリー,1997年(新潮社,1983年)


哲学的な議論も大切だが,そんなことを言う前に,普段の生きる場である組織が壊れかかっていてどうしようもない,という現実的な難問に,多くの人が直面しているのではないだろうか。
本書(原題は Corporate Cultures)は,成功を収める企業には強い文化があり,その文化を維持し広めるシンボリック・マネジャーの働きが重要である,と主張する。経営者の課題は,データに基づく合理的経営というよりも,むしろ組織文化(組織の中で評価される価値や行動様式)の管理にある,ということだ。
おもしろいのは,強い文化の記述よりも,弱い文化についての記述である。

「・・弱い文化の会社は強い文化の会社の持つ特徴の一部あるいは全部を欠いている・・具体的に言えばつぎのようになる。
 ○弱い文化は事業を成功させる方法について,明確な価値理念も信念も持たない。
 ○いろいろな信念を持ってはいるが,どれが一番重要であるか,という点で社員の意見が一致しない。
 ○会社の各部門が基本的に異なる信念を持っている。
 ○文化の英雄が破壊的あるいは分裂的で,何が重要であるかについての共通の理解を基盤としていない。
 ○日常生活の儀礼が統一されていない─みんながそれぞれ勝手に振るまっている─か,まったく矛盾している─右手と左手が正反対の目的を果たそうとしている。」(200頁)

「弱い文化」とは,昨日(8月23日)の記述に関連させるならば,「ごっこ」が成り立たず,個があふれ出して,組織の中に「敵対する他者」があらわれるような状態である。そこでは,共同する「他者の不在」が慢性化している,と言えようか。
昨日紹介した書物の中で,著者は,「[禅の]公案の言語からは秩序の言語は出てこないように思われる。それはレヴェルが違うのだ。秩序の言語と秩序を解体する言語と,それらがどう関わりうるのか。それはまた改めての課題である」(『解体する言葉と世界』57頁)と述べていたのだが,本書はまさにこのもう一つの課題,つまり組織秩序がいかに成り立つのかを,文化の観点から明らかにしようとするものである。

「・・日本人が成功している大きな理由のひとつは,彼らが常に,国全体として,ひとつの非常に強い,緊密な文化を維持していることだと思う。個々の企業がそれぞれ強い文化を持つばかりでなく,企業と銀行と政府との連繋そのものがまたひとつの文化であり,それもきわめて強力な文化なのである。日本株式会社とは実に企業文化の概念を全国規模に拡大したものである。アメリカではこのような理念の同一化を,全国的な規模で適用することはできないが,個々の会社では非常に効果的であると思われる。事実,アメリカの企業の持続的な成功のかげには,ほとんど常に,強い文化が推進力として働いている。」(5頁)

本書が出版されたのは,アメリカ企業の生産性の伸びの低下が目立ち始めた80年代初頭,アメリカと比べて相対的に日本企業の躍進も目立ち始めた時期である。それから,「泡」の経済があり,泡つぶれの「失われた十年」があり,「日本株式会社」も大きく様変わりをした。「日本株式会社」にもさまざまな問題はあったのだから,様変わり自体の当否はさしおく。ただ,いずれにせよ,組織文化の問題から逃れることはできない。

「強い文化は,人は平常いかに行動すべきかを明確に示す,非公式なきまりの体系である。自分たちに期待されていることが正確にわかっていれば,社員は各状況でいかに行動すべきかを即座に判断することができる。」(21頁)

人を動かす秘密は文化にある,というのが著者の洞察である。しかし今や,変化の激しい状況下において,「強い文化」の維持はいたるところで困難となってきているのではないだろうか。
現下の大学に「リーダー養成」が期待される背景には,この文化の弱体化があるように思われる。現代社会は,文化を創るリーダーを求めている,ということだ。

「根本は,どんな組織においても,人を動かすことの大切さを理解することである。かつて組織作りをした人たちは,強い文化の価値を認め,それを築くことに励んだ。自らを会社における象徴的な演奏家-演技者とみなしていた。教訓を徹底させるために,さまざまな事業を効果的に,劇的に,演出する術も心得ていた。・・」(26頁)

こうした起業家によってつくられた「強い文化」は,個を喪失したような企業人しか育てないと,哲学思想系の学者の多くは,そのように考えてきたと思う。
もちろん,それは完全な誤りとは言い切れないが,現代のさまざまな苦悶する組織の有り様を見るときに,大学にリーダーの養成を求める社会の悲壮ともいえる声に,もう少し耳を傾けなくてはならないのではないか,という気はする。ただし,我が子かわいさゆえのエリート教育は勘弁願いたいのだが。