【備忘録】はえぎわ「ガラパコスパコス」三鷹星のホール

「太郎…シンプルシンプルに聞くけど、シャーリー・テンプルに聞くけど…(ドアを閉める)シャーリー・テンプル風にシンプルシンプルに聞くけど、太郎、これが犯罪だってのは分かってる?」(はえぎわ『ガラパコスパコス』、2013年、三鷹星のホール)


派遣のピエロとして働く青年・太郎は、ある日、自分の稚拙な芸を喜んでくれる老女・マチコと出会う。マチコは、高齢者施設を抜け出してきたのだった。そんなマチコをかくまうかのように、自宅に住まわせる太郎。ひょんなことから始まった二人の共同生活は、周囲の人々を、戸惑いと苦悩に陥れていく(三鷹市芸術文化振興財団HPより引用 http://mitaka.jpn.org/ticket/1306070/


はえぎわ「ガラパコスパコス」三鷹星のホール、観てきた。抽象とシュール・ナンセンスを得意とする劇作家で主催のノゾエ氏は『○○トアル風景』で岸田戯曲賞を受賞、本作では主人公の兄の役としても出演しています。劇団コンセプトである「嘆きの喜劇」と、話題になった「黒板演出」の面白さを堪能するのに最適な作品だと思います。


何と言っても見所は装置。抽象度の高い舞台上、黒板の壁や床に役者がチョークで小道具やト書き(の一部)を書く/描くことによって劇空間を生み出す「黒板演出」。シュールな人物造形や台詞回しに調和して、舞台上が漫画のひとコマのようにも見える。単に仕掛けとして面白いだけなく、文字と黒板は、クライマックスの物語展開への重要な伏線になっていくのも、周到に計算された美しさ。


本作のもう一つの見どころは、主演俳優。「わが星」で岸田賞受賞し、自身も劇団「ままごと」を主宰する柴幸男氏が主役の「コミュ障な若者」を演じています。その繊細な身体と台詞回し、決して器用とは言えない演技は、「不器用な」主役キャラクターにぴったり。芸達者な役者という印象は受けなかったが、線の細い身体が詩情あふれる劇作のイメージとあいまって魅力的な存在感があり、今後俳優としても人気が出るんじゃなかろうか、と思いました。柴ファンは必見。


音もよかった。序盤は無音のパントマイムで始まって、その後も台詞は禁欲的に削ぎ落とされている。特に、クライマックスのボレロラヴェル)とダンスは、かくも効果的にこの曲を使った舞台は稀有だろうと思わせる感動的な出来。ここから後のシーンだけでも観る価値あり。そのほか、讃美歌312番も印象的に使われており、シュールでとぼけた人物造形や漫画的ビジュアルと、哀切でクラシカルな音楽とのミスマッチも面白い。


ただし、装置や音など演出の面白さに惹かれたのは、物語のメッセージにあまり心動かされなかったからかもしれない。いわゆる「コミュ障」の若い男が迷子の痴呆老人と出会い、アパートで同居し始めてしまうという設定は、記憶と孤独、家族や他者との関係性といった、コミュニケーションの問題に深く切り込んでいきそうなのだけど、観終わったあと何か大きな(または新しい)メッセージを受け取った感じはしなかった。興味深い見せ方をしてくれて面白かった、という程度の印象にとどまっている。「老い」を前向きに提示する、というのはあるかもしれないが、私の経験不足のためか、作品全体が表現している大きなメッセージとしては受け取れなかった。


とはいえ、この劇作家の魅力は、そういう「大きなメッセージ」に安易に流れることを拒絶して、あくまでシニカルにシュールにこの世界を切り取って見せるところにあるのかも。どうにもならないコミュニケーションを諦めつつ、それでも私たちは「他者」と/「家族」と/「社会」とつながりながら進まざるをえない。その前向きなあきらめと希望を暗示したラストは、物語全体を包んだ閉塞感を開く爽やかな後味。装置の一部を乗合バスに見立て、主人公の不適応も包み込んだ「We are the world」のシーンは、その意味で実に象徴的だった。


というわけで、はえぎわ「ガラパコスパコス」、オススメです。脚本を販売してくれたらなー。



【補足】
この作品をつくる過程のインタビュー。劇作のモチベーションや仕事への向き合い方を含め、演劇という世界で長く続けている劇作家の心模様が見えて嬉しいような気持ちになる記事。


インタビュアー:
今回、この作品は再演となりますが、初演時(2010年12月こまばアゴラ劇場)に、この舞台を作ろうと思われたきっかけを教えてください。

ノゾエ:
その年の春に、世田谷区の財団から、世田谷区内の高齢者施設を十数箇所廻って、ご利用者さんに演劇やパフォーマンスを見せてほしいという依頼がありまして。その時、今までは曲がりなりにも“お客様は劇場に来て下さるのが普通”といいますか、少なくとも「今日は、劇場に演劇を観に来ました」という想いを持った人たちの前で公演をしていた自分にとって「待ちわびている人が誰もいない中で芝居をやる」ということが、初めての体験だったんです。ご利用者さんにとっては、毎日、ある時間になると始まる“いつもの”レクリエーションの時間で、それが時には音楽であったり、ボウリング大会であったり、なので「はい、今日は演劇ですよ」と言われて、座らされているだけだという。中には認知症の方も多く、感情も反応もとても薄い様子を目の当たりにしました。「ああ、ここでどこまで演劇が届くのだろうか?」と懸念しながらも、一生懸命務めていたら、やがて少しずつですけど、自分が思ってもみないところで“届き始めている実感”を感じるようになってきて、ご利用者の皆さんの表情がみるみる変わっていって、それまでほんと無表情だった方が泣いたり笑ったり、こちらが歌を唄うと、知っている歌だと一緒に唄ってくださったりして。もう職員の方もびっくりされて、普段だと公演を実施した資料として出演者の写真を撮るだけらしいのですが「あのおじいちゃんが笑ってる。あのおばあちゃんのこんな表情見たことがない。ぜひご家族に写真をお見せしたい」と、ご利用者さんの写真ばかり撮られ始めて。
それを目の当たりにして、僕自身初めて、舞台上で涙が出て止まらなかったんですね。
そこから、「老い」というものをこれまでとは違う感触で感じるようになり、芝居の中で「老い」を探っていきたいと思ったのが、この芝居の原点です。

三鷹市芸術文化振興財団HPより引用 http://mitaka.jpn.org/ticket/1306070/

昔ノゾエさんと(観客としてでもなく友人としてでもなく)お話させてもらったことがあって、その時に感じた(シニカルでシュールな喜劇の作風のイメージとは異なり)「飄々とまじめに仕事へ取り組む人」の印象を思い出しました。クリエイティビティやら才能やらの点では全く比較もできないことですが、「作品を発表して評価される仕事」を続けているという意味では同じなので、まじめに作り続けることの大事さを思ったり。作品のできる過程にまで目を向けるのは、劇評としては邪道なのかもしれませんが、仕事のなかで生まれたアイデアによって次の仕事が進化させられていく「仕事道」的な意味でも、励まされる作品だと思ってます。