電話会議

ファインマンの本の中で、オッペンハイマーやテラーやアインシュタインやらが参加した会議の様子が書かれている。議長のオッペンハイマーが切り出して、その後一人一人順番に淡々と意見を言う。それで一周するとオッペンハイマーが「ふむふむ、だれそれの意見が一番よさそうだからその線で行こう」と言うと、他の皆も賛同して意見がまとまって終わる、というような感じだった。話を聞いている間にちゃんとみんな得失を考えて、一番論理的な解にみんなが到達するので、それ以上論戦をする必要はない、というのがファインマンの書き方だったわけである。

 Croquetも電話会議はしているが、様子はなんだか大分違うなあ、ということが言いたいだけなのだが。でも、いろいろ進歩はあった様子。

Jerome Bruner at UCLA

人類学(anthropology)のところに講演をしに来ていたので、聞きに行ってきました。89か90か、というお年なのに、本当に若い。ずっと立って講演しているし、先人の名前も最近の出来事もどんどん出てきます。違和感なし。Alanにもその感はありますが、写真的に本を読んでそのまま覚えてしまうタイプの人です。Alanは自分以上だと言ってますが。

講演の内容は"cultural psychology"ということで(「文化心理学」、なのかな?)、語りというものがつくる物語がどのような役割を果たしているか、7±2のスロットに多くのものを入れるために塊を作るけど、その塊を作るときに文化がある役割を果たしている、文化が持つ機能に関する3つの仮説("ordinariness"(普通)を定める、なにが可能であるかを定める、普通と可能の間を物語でつなぐ)、ラットを使った学習実験で、環境が与えた効果、そして最後のほうは法学者としての立場から、反例や情状酌量(?)の話になり、"justice has to not only be done, but also seem to be done"(司法は(正しく)行われるだけではなく、行われているように見えなくてはならない)というような話で締めくくっていました。

 難しい話でしたが、ジョークも多かったし興味深いものでした。

 Kimのした質問は結構面白くて、文化が普通というものを規定するのだとすると、新しいこと、普通じゃないことはどのように起こってどのように広まっていくのか、という質問でした。それに対しては、Reggio Emiliaの例を出して、光ファイバーを通すためにリクリエーション用の自転車道を掘り起こすことになったとき、市長(JerryはReggio Emiliaの名誉市民なので市長とも友達なのです)はまずその横にちゃんと使える代替の自転車道を作ってから道を掘り起こした。50年前だったらリクリエーションで自転車に乗る、ということは普通じゃなかったのでそんなことは起こりえなかったと思うが、今はちゃんとそれを確保することが当たり前になっている、というようなことを言っていました。(時間はかかるが、文化は変わる、ということの傍証だったのかな?) 「退屈が果たす役割(role of boredom)」を決して軽視してはいけない、と言ってましたね。星新一のストーリーの一つを思い出しました。

、人類学はエキゾチックな場所に行って行うものではなく、この国からはじめなくてはいけない、とい話でした。まあこれは外国人にとっては当たり前なわけですが。

 またちょっとミーハーして、Doreen (Nelson)に写真も撮ってもらいました。

 人類学部の人は、(偏見かもしれないですが)他の学部にもまして、先祖が想像しにくい、というかどうやらハーフではないか、と見受けられる人が多かったように思います。ハーフだと先祖や人間の文化について興味がわきやすいのかもしれません。