劇場版機動戦士ガンダム00 におけるテーマについて

今回、ややぼかしてはおりますが、劇場版00の内容に関するネタバレがあります。


テーマは、「対話」と「理解/共感」

まあ、難しい話は抜きにして、劇場版00が伝えたかったテーマってのは、恐らく「理解し合う」ことだと思う。そんで、そのテーマに沿って提示した解決方法が、「対話」「理解/共感」の2つである事は劇中から推測できる。


「対話」に関しては連邦政府が(色々ありつつも)対話で解決する手段を模索することを止めなかった事や、刹那が最後までそれを貫いた事。「理解/共感」に関しては「人類をイノベイターに覚醒させ、相互理解を深める」ことが、問題への解決手段になってたのだろう。


では、これらテーマについて、私なりの意見を言わせて貰うと、結論から言って「対話」への手段はまだしも、「理解/共感」への手段はかなり問題があると思う。「対話」の手段に間しては、そうしないと人類滅ぶって状況にあるにも関わらず徹底抗戦を行うのは、現実的な選択肢ではない。その為、選択として「対話」は妥当だといえる。


しかし、「理解/共感」への手段が、GN粒子を撒く→少しずつイノベイターへと進化する→イノベイター増える→イノベイター同士なら意思疎通が簡単に可能なので、「理解/共感」が得られる→結果イノベイターにより人類は救われる、っていやいやいやいやいや!!? 無理あるでしょそれ!?


……と、ここで、劇中を全体から俯瞰すると、この無理のある結論に、ある異物があることに気づく。



デカルト=シャーマンの存在

ここで、ふと、劇場版00内において、テーマである「対話」「理解/共感」に対し、対比的な側面を持つ人物が浮かび上がる。そう、デカルト=シャーマンだ。彼は(刹那を除けば)人類を代表するイノベイターである、にも関わらず彼は途中で退場をしてしまう。彼は対話と相互理解を放棄し、途中で退場する。


そう、彼はイノベイターのはずなのに、彼にはイノベイターに与えられいるはずの、ある種の(物語的な意味での)「特権性」が無い。これは一見物語上においてソレスタルビーイング万歳主義に見えるかも知れない。しかし、その後の未来はソレスタルビーイング不在で、他のイノベイターが中心になって、未来を切り開いていくことになる。


するとどうだろう、そこでデカルト=シャーマンの非対話、非相互理解的なところを見ると、必ずしもイノベイターがいることによって、未来が良い方向へと切り開けるとは限らない、むしろ選択の可能性がより広がっただけで、それ以上でもそれ以下でもない、と見るのが普通だろう。


つまりは、飽くまで「人類をイノベイターに覚醒させ、相互理解を深める」ことは、イコール良い事ではなく、飽くまで可能性の一つでしかなく、絶対の結論ではないことが分かる。



テーマに対し納得行くか、行かないか

ただ、「一旦提示された結論は、実は二面性がありゼッタイに正しくないことは、話上でもちゃんと書かれてる」と言われても、正直納得がいかない部分もあるだろう。この辺は論理的な問題以前に、まず生理的な問題も含んでくるとは思う。


つまり、単純に言ってしまえば「あのオチ気持ち悪い」って気分のことで、例えば某作品で例えると、進学において、別々の進路を歩むのが普通なのに「みんな一緒の大学に行く」って結論を出している。そして、それが受け付けない、気持ち悪いって感じる人も当然いる訳で。この辺は、見る側の経験の差よっても変わってくると思う。


いや、でもそれ以前に、劇場版00はテーマを見る作品じゃない、って見方もある訳で……まあ、実はそれは私の考え方だったりするんだけど(汗 じゃあなんでこんなにテーマについてダラダラ語ったんだよって!? うーん、分からん(汗



過去の関連エントリ:
劇場版機動戦士ガンダム00 は「ガンダムじゃない」
http://d.hatena.ne.jp/str017/20100926/p2