感覚としての分かる、表出としての分かる

の続き




前回の話は「信じる」についてだった。そこで「信じられる」は「感覚」である、という話をした。今日はその話の続き。


最近の私は、本を読んだり、自分で考え事をして「なるほど!」とか「そうだったのか!」とか、知るということでとても驚いている。そういう体験は快感だ。「知る喜び」を感じる。そしてそういうものを与えてくれるのが良い勉強だと世間的にも言われているような気がする。


対して高校までの勉強を思い出してみると、先生の話などほとんど何も覚えていない。雑談の中に極々わずかに、印象深い言葉があっただけである。メインの勉強部分で驚くということはほとんどなかった。


しかし、現に私は筑波大学に合格して入っているのであるし、授業の中で何も学ばなかったということもないと思う。ならば、知ることで驚いてはいなくても、つまり、快感を覚えながら学習していたわけではなくても、知る事には成功していたのだろう。であれば、実は知ることに驚きは必要ないのだろうか?


つまりどういうことか。「分かった」とか「知った」という感覚があることと、例えばテストで点が取れることのような、それを外的に証明する能力があることは、別物である。…ちなみに、こういう時に、後者を「本当に知る」などと呼ぶのは「言葉の取り合い」であることに注意してほしい。それらに優劣を付けずありのままに捉えれば、単に二つの「分かる」があるのだ。


ここでは「分かった」という感覚があることを、便宜上「内的分かった」と名付け、外的に証明できる能力があることを「外的分かった」と名付けることにする。


少し戻って、高校の授業に驚きが無かった、すなわち「内的分かった」が無かった理由を考えてみる。私がざっくりと考えたのは以下の二つだ。
・まだ疑問を持つ前の事を教わるので、疑問が解決したという感覚が得られない。
・上手く段階的に少しずつ新しい事を教えていくので、直前に教わった知識との差が小さいから、その瞬間知ったというインパクトが小さいから


さて、この二つはどういう関係にあるのだろうか。よく分からない。とりあえず、後者から考えてみよう。この理屈で行くと、カリキュラムを上手に組むと「外的分かりやすさ」が高まる代わりに、「内的分かった」が低くなるような気がする。果たしてそれは本当だろうか?驚きがない方が例えばテストの結果としては良くなるのだろうか?


既に知っていることをもう一度聞かされてもそれで感動したりはしない、というのは事実だろう。だから、少しずつ段階的に複雑になっていく順番で教わっていくと驚きを感じにくい、とは言えるかもしれない。しかし、驚きがない方が良いとまでは言えないかもしれない。同じことを伝えるのでも、より驚きを持って伝えることも出来るのではないだろうか。


そのいい例だと思うものとして、「温厚な上司の怒らせ方」というビデオがある。一つ見てもらおう。
https://www.youtube.com/watch?v=FeXLPBCiCpw

これは、「人の怒らせ方」についての、映像のマニュアル(もちろん、お笑い目的だが)である。これらを我々はインパクトを持って見ることが出来る。さて、普通は、マナーを教えるのであれば、正しい振る舞いをしている映像を見せるはずだ。しかし、それはきっとインパクトがないに違いない。その振る舞いは、我々が元々イメージする礼儀正しい振る舞いに相当近いはずだからである。であるからこそ、その映像があったとして、我々はそこから学ぶことが難しいのだと思う。


マナーを教えるにあたって、「何かをすべき」ということは、「何かはすべきではない」ということと表裏一体であると考えることが出来る。であるから、同じことを説明するのでも、そうしてひっくり返した方が驚きを喚起することが出来る可能性がある。しかも、片方が当たり前すぎる場合こそ、その反対が大きな驚きになるはずである。この映像の作者は、きっとそれが分かってやっていると私は思う。


また戻って、では、このことは、「疑問を持つこと」とどういう関係にあるだろうか。疑問を持っていると、それが分かった時に大きなインパクトになる、ということは事実のように思う。では、その疑問はどうすれば生まれるのだろうか。


いささかトリッキーな話になるが、結論だけでなく私の思考過程を聞いて欲しい。人はどういう時に「なぜ」と口にするか思い出してみたところ、なぜという言葉が、疑問である場合だけでなく、否定を意味することが多い事を思い出した。「あいつはなんであんなことをやるのか分からない」というのは、否定、非難の言葉だ。しかし、これを言葉の使い方が間違っていると捉えずに、そもそも否定と疑問は同じような心の動きだと考えてみた。すると、これは「今まで自分が知っていた事と違う」という局面において発生するのではないかと思いついた。


小さな子供は「なぜ、なぜ」と聞く。まだほとんどの事を知らないので、身近に起きる現象のほとんどが、自分の知識では説明がつかないのだから、疑問を持つ。ここまでは良さそうだ。大人になって、自分の持っている概念で、出会う現象が説明できてしまうなら、疑問は持たない。これも良さそうだ。そして、既にたくさんの知識を持っている状態で、説明がつかない事があれば疑問になるし、その結論が今まで考えていた事をひっくり返すようなことになれば、既に知っていることが多い人の方が影響が大きいので、大きなインパクトになる。これはどうだろう…。逆に子供は適応力が高いとか、そういうものかと思って納得してしまうというような話も聞くので、私に実感があるわけではないが、これも納得してもらえるかもしれない。そして学校の勉強で驚きが得られないのは、それが何故正しいのか考える暇もなく学んでいかないと間に合わないようになっているから、だろうか。


私は別に学校教育の悪口を言いたいわけではないので、なんだかそうなってしまった感があって癪なので、少し擁護しておこう。知識がないと、それが覆ることもないのだから、いつか覆すための知識を溜めておくことにも意味があるのかもしれない、と私は思う。


話がまとまっていなかったら申し訳ない。それでも書かないと前に進めそうにない状況なので、ご勘弁を。

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(一旦終了。以下メモ)
・難し過ぎて泣きそうだった
・次の話題は、さらに踏み込まないといけない。「○○とは何か」という問いは何を聞いているのか、何を答えればばいいのか、という話だ。「○○である」ということは「○○でない」ということとセットにできるのか、みたいな話になると思う。
・ちなみに、「信じること」からはもう一つ話の分岐先の予定があって、それは「信頼の貯金」という話だ。そしてその話からの派生予定が「安定系と不安定系」とか「スパイラル構造」みたいな話。