ロジカルシンキングと宗教に共通してみられる布教性について

ロジカルシンキングは、相手のためのものである。論理的に考えて論理的に説明すると、相手は納得しやすい。がしかし、それゆえに、ロジカルシンキングを求める人は、自分ではなく相手に求めるのである。


「相手の望むことをしてあげると幸せになれる」という教義を持つ宗教を考えてみよう。簡単化のために、この宗教にはこの教義しかないものとして考える。この教えを守る集団がいたとすると、お互いが相手の望むことをしてあげることによって、お互いが幸せになることができる。さてここに、その宗教に入信していない人がいたとする。その人は他の人を幸せにしようとはしないのだけど、他の人はその宗教に入っているわけだから、その人を幸せにしようとする。そうなると普通は、相手の望みを叶えようとしている側は不公平に思うだろう。(まあ、その宗教に入信してる人は相手が幸せになればいいわけだから、その相手が見返りをくれなくても究極的には構わないのかもしれないが)


この場合にどういうことが起きるのかを想像すると、「相手にも自分と同じ宗教に入ってもらう」か、「同じ宗教に入っていない人を排斥する」のではないかと思う。これは、裏表の関係にあるもので、どちらか一方を選択すると同時にもう片方も起こることだと思われる。


ここで仮に定義した宗教の教義というのは、実は宗教のとても大きなポイントなのではないかと思っていて、それゆえ宗教は「布教をする(その考えに賛同する人を増やしていく)」ということがそもそも根幹に据えられていて切り離せないのではないかとか思っているのだが、その話はまた別の機会にする。


さて、よくロジカルシンキング(論理的思考)について。ロジカルシンキングというのは、まあ割とチャライ感じ「万能の道具だー」みたいに使われているのかもしれなくて、具体的に本を読んだ事とかはないのだが、とりあえずここでは論理的に説明する事だとしておく。「思考」って言ってるのに「説明」に限定するのはなんで?って思うかもしれないけど、脳内でどう思考しているかなんて他の人には見えっこないからである。


論理的な説明というのは、正しさが明確な説明である。しかし、それは論理という考え方自体を受け入れて理解しているからこそそうなるのであって、論理を受け入れていない人に対してはその効果は発揮されない。論理というのは「こういう説明なら納得できるはず」という「納得の型」であり、その型を持っていない人にとっては、なぜその説明で納得できるはずなのかが分からないのである。
さて、ここで冒頭の宗教の例を振り返ってみよう。論理は、お互いがそれを受け入れていると、お互いの議論がスムーズになって、その分だけお互いを幸せにしてくれる。しかし、そこに論理を受け入れていない人が混ざると、「論理側」の人ばかり相手の幸せを願うことになって、不満を抱くことになる。


そこから起こることも宗教の例と同じで、他人に「ロジカルシンキングをするよう強いる」か「ロジカルシンキングをしない人を排斥する」になると思われる。こういう例に思い当たる節があるはずである。


ここらで大体話は終わりで、結論というには少し飛躍(論理が)している感があるが、少し考察する。ロジカルシンキングというのは、元々が「相手のため」のものであるからこそ、そこに宗教と同様の「布教性」が発生するのだろうと思われる。なぜロジカルシンキングが相手のためのものなのかと言えば、それは「説明」が相手のためのものなのだからだろうと思われる。

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以下補足。
・もちろん私は、論理的な説明というのは、相当に妥当かつ有用と言える方法だと思っていて、それを分からない人を議論から切り捨てるのがいけないと言っているわけではない。しかし、「説明」が「相手のためのもの」であるならば、切り捨てるということは元々の目的を放棄することだということである。

・私はここで、説明というのが「相手のためのもの」だと言っているが、これこそが論理で言う所の「前提」の一例であり、そこが真でなくなると話(結論、の意味)は変わってしまう。そしてそれが偽になってしまったケースもたくさんある。すなわち、相手に自分の意見を通して相手を好きなようにコントロールするのが目的であれば、ロジカルシンキングは相手のためのものでは無くなる。そんなものを相手が了承しないのは当たり前であろう。しかしこのケースは物凄く多い。