chiki氏のコメント、再び(9月16日)

 「自己決定(選択自由)を認めない自己責任論/かくも不自由な新自由主義」(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20050916/p2)


 優先順位(プライオリティ)が言われる。「ものごとには優先順位があって、最大多数の最大幸福となる部分から解決していくべきだ」とされる。そこでは弱者(たち)の問題は後回しにされる。例えば、弱者の問題ばかり考えていたら、諸外国との国際競争にうちかてない、全体の国益が押し上げられれば底辺層の人々の生活も結果的に押し上げられる、と。
 しかしこれは何の優先順位か。要するに財源を投入すべき対象、の優先順位のことだと思う。財源には限りがある、だから優先すべき事項がある、と。


 例えば次の言い方がしばしば福祉分野ではなされる。当事者の自己決定権、ニーズ、それは大切だ、しかし財源には限りがあるから全ての自己決定権、ニーズを満たすことはできない……。
 しかし、この「財源がないから仕方ない」という言い方は、結果的に、「あなたの自己決定権はこの社会の中では認めない」と言い切ることと完璧に等しい(立岩真也がどこかで、もちろんこういう強い調子ではなかったと思うけど、そんなことを述べていた)。その点は踏まえておいた方がいい。


 すると「すべての必要な人に、必要なものを」という「完全平等」の原則は、財源の有限性にも関わらず(それゆえに)、財源論的プライオリティというリアリズム(?)を破壊してでも主張されるべきである。そうなる、はず、だ。そのことは財源を大事にすることと矛盾しない。
 多く取りすぎる人の問題、少なくしか取ろうとしない人の問題、は残る。しかしそれらを理由に前者の「完全平等」の原則を手放す必要があるとは思われない。
 結局、優先順位をいう財源論は、それを主張しても自らの生存を掘り崩す心配のない人々が、自己正当化を主張しているにすぎない。そういう人々が「現実的であれ」とリアリズムきどりで口にする。「最大多数の最大幸福」にはなから自分が含まれるとわかっている連中が「最大多数の最大幸福」を口にするとすれば、やはり恥知らずになる。それが悪いとは思わない。ただ、自己正当化したいなら自己正当化したいと素直に口にする公平さは、せめて、せめて必要だとは思う。


 chiki氏は自己決定権/自己責任を区別し「自己責任と自己決定は本来セット。ところが一元的価値がキープされたまま、自己決定権が奪われている状態で自己責任のみを押し付けるのは明らかにフェアではない」と書く。
 しかし、問題は、「自己決定権」が確保された時にも残る。というか、そこにこそ本当に難しいフリージング・ポイントがある。
 「あなたは自分で決定したでしょ?失敗したのは自分の選択の結果だから、あとは自分で何とかしてね」と他者から言われる場合、だけ、ではない。
 例えば安楽死尊厳死について、周りの制止や「生きてほしい」という願いにも関わらず、本人が「いや、やはり自分は(周りに迷惑をかける位なら/自分の身体を自分で制御できなくなる位なら)死を選びたい、選ばせてもらいたい、それをあなた達にも尊重してほしい」と言う場合、である。自己決定で奴隷を選ぶ、臓器の販売を選ぶ、売買春を選ぶ、等の問題にも言えるし、もっとささいで日常的な場面にも様々なかたちでこの問題はある。
 自己決定という言葉には常にあやうい両義性がつきまとう。


 自己決定権は、常に機会均等論(構造改革)とセットで語られる。平等なゲームの元では敗者が生れることも仕方がない、と。
 だが真の機会均等とは何か。このことはあまり問い詰められない。でもそこを明らかにしないまま機会均等+自由競争がいわれる。誰かの既得権で自分は損してる、と。郵便局職員だけではなく、野宿者や障害者や難民(認定がおりないから、難民以前の難民)も「既得権層」に映る。あいつら何もしないでいい目ばかりみやがって、と。こんな自由競争論は現状肯定以外の何ものでもなくなる。新自由主義者の不徹底さは、自分が得たものを全て自分の独力の成果と信じ込み、真摯に自らの既得権を疑い得ない点にある。たかだか相続権の廃棄、を主張した程度で既得権(の転移の構造)を否定したことにはならない。道路や建物一つとっても、一定の能力をクリアした「人間」の全てが無条件に享受し続ける権益が確実にあるからだ。