美樹さやか、最後に残った脚本の良心。 劇場版まどかマギカ叛逆の物語レビュー


ものすごく評判が良いので映画まどか第三弾見に行って来ました!
ありえない映像のカタルシス、物語のカタルシス、圧倒されっぱなしの2時間でした!
語りたいことがいっぱいあるので以下ネタバレかつ内容見ている前提でのレビューを書いていきます。







まずすごかったのは映像効果。映画のほとんどのシーンが魔女の結界内なので当然といえば当然なのですが、
イヌカレー空間と呼ばれる悪趣味コラージュカワイイ世界がびびるね。
ほんとは画像キャプ貼っていろいろ語りたいけどノーモア映画泥棒だから控えます。



あらすじをおさらいすると、(ここは自分の整理のための段落なので読まなくても大丈夫です)
まどかが円環の理となって消えた後のほむらは魔獣との戦いを続けていた。
その魔力が尽きかけて円環の理に導かれようとするとき、キュウべえはほむらを円環の理の影響のない閉鎖空間に閉じ込めた。
ほむらは閉鎖空間内で魔女となり、その時点で魔法少女だったマミ、杏子、そして既に円環の理に導かれていたさやかとシャルロッテ(ベベ)を取り込んで、
偽まどかを中心とした平和な見滝原市を結界内に形成した。やがてほむらは自分が魔女であることに気づき、閉鎖空間内での自殺を試みる。
それを止めようとまどか(円環の理)の使いであるさやかとシャルロッテが閉鎖空間を破壊し、ほむらは本当のまどかと出会い、導かれようとする。
しかしこれがほむらの本当の狙いであって、ほむらは円環の理から人間体のまどかだけを引き抜き、円環の理と人間体まどかが同時に存在する世界に書き換える。
ほむらは本当のまどかと一緒になり、ハッピーエンド。
マミや杏子、さやかは魔法少女として魔獣と戦い続けているが、ほむらはまどかが魔法少女になることを全力で阻み続けていることは間違いないだろう。



はー、これ書くだけで疲れた。



で、そのストーリーのキモですよ!ここから本題!
最終的にほむらとまどかも結ばれて、恭介は病気が治って、魔法少女も呪いを産まずにきれいに消えることができるステキなハッピーエンド世界で!
なんで最後に美樹さやかがあんなに文句言ってるのか、ということですよ!
それは脚本が本当に「魔法」を使ってしまったからなんです。



魔法とはなんなのでしょうか?魔法とはその名の通り、魔の法です。コントロールできない、人智を超えた法です。
そう考えると気づくでしょう、魔法とは理(ことわり)と対を成すものであり、理を破壊するものなのです。
虚淵玄という作家は理の作家です。彼の作品は物語が落ちるべきところに落ちる重力を非常に大切に考えており、
立てたフラグは余すところ無くまっとうな伏線であり、回収されます。ご都合主義のハッピーエンドはけして許しません。
(それが特に悲劇である場合、救いがないためにバッドエンド作家などと呼ばれますが)


僕はこの作品に、そんな虚淵玄らしからぬ「魔法」を感じるのです。
一度魔女に堕ち、まどかの意志も蹂躙したほむらは物語の重力からいえば、そのどす黒い感情に自らを焼かれて地獄に堕ちるべきなのです。
でも、それがない。
虚淵玄作品には珍しく「理」を破って「魔法」を使ったのです。


しかし、それにもエクスキューズがあるのも虚淵作品らしいところ。
どう考えてもみんな幸せになっている状態でほむらに文句をつけるさやかはいわばそんな「魔法」を使ってしまった脚本への言い訳なのです。
まどかはさやかの不幸、ただ一例だけを見て全魔法少女を救う覚悟を決めます。
つまり、まどかを神様から人間に戻してしまう行為はさやかの犠牲も(脚本上)意味のなかったことにしてしまうのです。
そんな脚本の落ち度に文句をつけられるのはやはり美樹さやか本人なんでしょう。
望んだはずの恭介を願わなかったため、得られなかった恨み節かもしれませんけどね。


といったわけで、叛逆の物語は本当の意味でほむらが魔の法の少女になった物語でした。
僕たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の中にいる!