死への恐怖と『職業としての学問』のレビュー

なんか眠いけど、帰りがけに少し考えたことなので書いてしまいます。


バカの壁の養老氏の死の壁を読みました。死への恐怖、自分がなくなることへの恐怖を取り除くことできるものを探しています。 自分次第ですけどね。セラピーみたいなものでもかまいません。という「人力検索はてな」での質問。

id:finalventさんは「ない。」と簡単にお答えになっているし、私もそれに賛成ですが、もう少し丁寧に答えてみるとすれば。


「死への恐怖、自分がなくなることへの恐怖を取り除くことができるもの」を強いて何か挙げるとすれば、ドラッグでしょうか。「昔取った杵柄」ならぬ「昔飛んだ窪塚」(テレビの土踏まずというサイトで見た表現だっけな)を思い出させますね(もちろん墜落事故の真相はわかりませんが)。

一応念のために書いておくと、当然私はドラッグで恐怖を取り除くことはお勧めしません。

いま別の回答を思いついたけど不適切なのでやめておきます。うん。


形式的に挙げるのではなく質問者の意図を汲んで考えると、「死への恐怖、自分がなくなることへの恐怖」に対しては、取り除こうとするのではなく、その恐怖に耐えることのできる強さを自らの内に育もうとするのがよいと思います。このあたり言い回しが難しいのですが、問いの立て方の問題ではないでしょうか。


では、耐えられる強さを持つためにはどうしたらよいか?


さあ、そこは私が簡単に回答できる範囲を超えた問いです。一生をかけてじっくりその問いと向き合っていかなければならないのでは。


そういえばつい最近読んだマックス・ウェーバーの『職業としての学問』(ISBN:4003420950)の一節にはこうありました。トルストイについて述べた後に続く文章です。

かれの頭を悩ました全問題は、結局、死とは意味ある現象であるかいなかという問いに帰着する。かれはこれに答えて、文明人にとっては−−いなである、という。なぜかといえば、無限の「進歩」の一段階をかたちづくるにすぎない文明人の生活は、その本質上、終わりというものをもちえないからである。
(中略)
一般に古代の農夫たちだとかは、みな「年老い生きるに飽いて」死んでいったのである。というのは、かれらはそれぞれ有機的に完結した人生を送ったからであり、またその晩年には人生が彼らにもたらしたものの意味のすべてを知りつくしていたからであり、かくてついにはもはやかれらが解きたいと思ういかなる人生の謎もなく、したがってこれに「飽きる」ことができたからである。


まあものすごく偉い学者の先生もこうした問題に頭を悩ませていたのですから、死への恐れは人類(あるいは動物、さらには植物も)に普遍的なものだと考えてよいと思います。

で、ウェーバーがこの問題にどう回答しているか?

私が読んだ限りでは<以下のような姿勢で生活を送りなさい>と答えているように思えます。


つまり、<神秘主義に陶酔するのでもなく、何かを待ちこがれるのでもなく、淡々と日々するべきことを為せ、何かについての教師を求めるのはよいが安易に(精神的)指導者を求めるな>ということをウェーバーは言っているように思えます。


『職業としての学問』のレビューを兼ねておきますが、気が向いたらまた触れるかもしれません。