『ニューロマンサー』と『長いお別れ』

 [読書]懐古的読書


 『ニューロマンサー』、ケイスとモリイの関係ですが、たしかに言われてみるとそこも「マトリックス」に似ていますね。「リローデッド」以降で明らかにされるザイオンの文化も『ニューロマンサー』にかなり近い気がします。あの小説は文体も含めかなり独特ですが、私も大好きです。

 『長いお別れ』については……あまりこの種の話題について語る言葉を持ちません。その時のムードやそれまでの経緯、駆け引きの結果によって抱く感情というのは私を愛しているわけではなかったという言葉のとおりかもしれません。それはそれとして、あの拒絶はマーロウの姑息な自己欺瞞でもあるというお話には強く共感しました。

 死者への負い目は人を強く優しくする、かもしれないこと

Amehare MEMO:IWさんのこと


 あとで少し書きたいと思って浮雲でクリップしていたのだけど書けないでいた。IWさんという方へのAmehareさんの追悼文。

 死者への思いはそれぞれのごく個人的なものなので、論評を加えるようなことは避けたい。ただ、Amehareさんの記事を読んだことをきっかけに私自身が思ったことを書いておきたい。


 私は10年前に友人を亡くした。具体的なエピソードはここにはさまざまな理由で書けないけれど、突然の訃報に接して以来、ちょっとしたいくつかの思い出がときどき心をよぎる。

 なんというか、自分によくしてくれた死者への負い目のような感情は人を腐らせる場合もあるのかもしれない。感謝していても、もう本人に何もお返しすることはできない。死んでいるから。

 けれど、何か重荷を負わされているように感じるのではなく、支えられているのだととらえることができれば、過去の死者への負い目はむしろ今を生きる力の源になる。

 ナイーブな話になるので自分の筆の拙さを申し訳なく思うが、行き場のない感謝を自分もまた他者への善意として表すことができれば、それはとても幸せなありようだと思う。

 あまり大きく呼ばわるような話ではないのでためらいはある。しかしそのためらいは常に感じつつも、あまり偽善という言葉で自分を縛らずに書いた方がいいのかもしれないとも思う。

 ステカセ坊さん合コンキング

はてな ホステスや風俗嬢など、そういった方たちとよく合コンをする僧侶(お坊さん)について、あなたはどう思いますか?あなたの率直な意見とその理由をお聞かせ下さい。

 この質問と回答をざっと読んでいて、22番目の回答

人徳の無い人がお坊さんになってしまうと、檀家さんたちの前では猫を被らなくてはなりません。立場を金で買われて猫を被るという意味で、そうした人達の仕事は水商売に非常によく似ています。
水商売や風俗に勤める子はホストクラブに通う割合が多いですが、それは心理学的に「自分にされたことを他の誰かにも仕返す」という心の動きだと思います。

 とか

そうした非常識な行動をして料亭に出入り禁止になるのは、だいたいヤの人とお坊さんです。

 とか、興味深いなあと思って回答者を見たら、以前何かの記事経由で発見したこいけあきらさんだった。

 こいけさんのはてなダイアリーを斜め読みしていると、コメント欄id:komasafarinaさんの思うにトラディショナルな日本語におきまして、現行の萌えの用法に相当しますところの語は、おそらく「憧れ」であったでしょう。という文に遭遇。おお、なるほど。


 全然関係ないけど、「お聞かせください」って「ステカセキング」にちょっとだけ似ている。ちょっとだけヨ

 今日の最初の記事は

 ちょっとサッカーファンに失礼ですね。なんというかファン心理を分析したりっていうこと自体が失礼になっちゃいますが、少し書き添えておきます。


 私の友だちには熱心なサッカーのファンが何人かいて、その中にはあるチームのボランティアもいます(会場整理とかの)。だから別に、私がスポーツの応援をする人を見下しているとか嫌っているということはまったくありません。

 あと、ナショナリズムについてはかなり多様な論点があって、それを語るのは私の任ではないのだけれど、連帯感そのものが何かいけないとまでは思っていません。実際にスタジアムで観戦するとまた違うのでしょう。別にフォローで書くのではありませんが、日本のサッカーファンは世界でもまれなほどマナーが素晴らしいということは知っています(相手チームへの配慮やゴミの持ち帰りなども含め)。だから少なくともサッカーに関しては私の杞憂かもしれません。


 ではなぜ少し距離を置くような書き方をしたかというと、雑誌「ナンバー」などがサッカーをすぐ国家間の戦争だとか勢力争いだとかになぞらえて仰々しく書いているので、それに少し違和感を感じているからです。(最近は見出しや広告もあまり見ていないので、変わったかどうかも分かりませんが)

 タカギ(ユ)さん、以前からアンテナに登録して見てくださってありがとうございます。別のお話ですが、前回ローリー寺西似の女性に髪を切られて出来が不満だったのですが、きのう意を決して涼しい顔して同じ店の別の美容師を指名しました。話も盛り上がり出来も満足。美容師さんとの人間関係ってめんどくさいですね。ローリーすまん。

 ジャッキー・チェンのWHO AM I?

稲本喜則の日記 - 荒行


 こういう名文は浮雲にクリップするだけでは私の腹の虫がおさまらない。

 名文なりと騒いでいてもあまり意味がないので、少し書いてみようと思う。

1

 フジパンのCMは寡聞にして見たことがないし(ここで心ある方は厳しくつっこみを入れていただきたい)、映画「北京原人 Who are you?」も観たことがない。

 観たことがないのだが、私はひところ「あなたは何様ですか?」と誰かに尋ねるとき「北京原人 Who are you?」ときちんとお尋ねしていた。*1

 なので、こうして北京原人のことを目にすると懐かしい。原始時代のことが。

2

 お言葉ですが、電撃ネットワークに入る度胸まではつかないのでは。メンバーはまだご存命なのだろうか……と思いをはせてしまうほどにあれはちょっとやばいと思う。

3

 現代の火渡りをなさっている方たち……つつしんで「冒険野郎マクガイバー」の称号を贈り、その勇気をたたえたい。火の車をタクシー代わりに呼ぶような、まさしく荒行だ。荒行をやめるときには自己破産という手もありますよと申し上げたい。沖縄の方々も「命(ぬち)どぅ宝」とおっしゃっている(不謹慎なようですが、これは冗談ではありません)。

4

 稲本さんは最後に現代の荒行として「NHKの集金人」を指摘なさっている。これはまさしく、だ。野暮を承知で書くが、文句を言うだけならいいとして、ゴネて払わないのはみみっちいよのう。電車のキセルと同じで、その分他の人がコストを負担させられていることに無頓着なのだろう。いわゆるフリーライダースワヒリ語で言えば「ただ乗り」だ。

 といっても別に強く責めたりするつもりはありません。私も払ってないんで……。

 といっても怒らないでください、既に払うための手続きをしましたので。


 なんかぐだぐだになった。

*1:礼儀正しい私は、「あなたもですか」と言うときに前もって「ブルータス」と呼ぶことを忘れない。

 スポーツナショナリズムへの違和感を感じる自分の感性に対する評価が定まらないことから


ただ、もはやどのようにしても、「ニホン」の応援を我を忘れて行うことはできそうにもなかった。言い換えると、非常に居心地の悪い思いをしながらの観戦になる。

こういった出来事にナショナリズムの匂いを感じ、戸惑ってしまうのは、自分の行為をメタ化した上で、評価を下せていないゆえのことなのだろうと思う。

戸惑ったまま、没頭することも嫌悪することもできず、ただひたすらに居心地の悪さを感じるだけ。批判することも賞賛することもできない現在は、奇妙に宙ぶらりんだ。

同じことを、多くの人が感じているのだろうか。宙ぶらりんのままに。

 たぶん私が感じているのも似たものです。ただ私の場合、そこは軽やかにスルーしてしまいますね。誰かが熱狂的なファンと本人から聞いても、とくにそのことに関して好意も嫌悪も感じない。自分自身は興味がない、というか。

 もう少し言うと、個々のプレイヤーに何らかのきっかけで人間的な親近感を抱くことはあっても、他の私から見て親近感のないプレイヤーで構成されたチームとの関係で勝って欲しいと強く願うことはあまりない。だって私が親近感を抱いていなくても、よく知らなくても、他の国の人でも、好意を持てそうな人は大勢いるだろうから。

 ただ、たとえば学校などの単位で知っている人たちばかりで構成されたチームなら少し事情は違っていて、やはり勝つと少し嬉しかったように思います。「市」や「区」だとその嬉しさがもう少し薄れている。

 だから国というとあまりに抽象的すぎてアイデンティティの拠り所になりづらいのかな、と思ったけど、たぶんそうではなくて、友人が喜ぶと私も嬉しいというだけなのでしょう。

 そう考えてくると、日本チームの熱狂的なファンとの距離が少し縮まった気がするけど、応援するかどうかとの関係で「プレイヤーが日本人というだけで友人、外国人というだけで友人でない」と感じる感覚まではまだ少し遠い。
 もちろん、日本チームの熱狂的なファン全員が文字通り「プレイヤーが日本人というだけで友人、外国人というだけで友人でない」と感じているわけではないのでしょう。

 ただ、うっすらとナショナリズムの匂いを感じることには変わりない。


 で、id:troubleさんのおっしゃる「居心地の悪い思い」というのがポイントになってくるのかなと思いました。

 エキサイトして応援している人たちのそばで「自分は興味ない」と受け取られる言動をすることの後ろめたさ。なんというか、集団への同化の圧力みたいなものはまだまだ物凄いものがあると思う。

 話をいきなり広げると、集団への同化の圧力/同じ感情を共有することの心理的な圧力というのは日本に限らずファシズムの時代でも共産圏でもあったから、日本がとりわけどうとは思わない。としてもやはり、いろいろな事件や見聞きしたことを思い出すとあーあと思いますね。

 意志決定プロセスにおける「集団指導体制」だとか個の責任を追及しづらいシステムだとか、結果として集団としての独善性とか言い出すと話があちこちに跳びすぎるしサッカーの話からずれすぎるのでやめておくけど。


 まあでも頭悪そうに進めてみるか。紳助にしろ、あびる優にしろ、血液型のTV番組にしろ、オレンジレンジの「盗作」にしろ、何かに対し抗議する・アンチテーゼを立てるということはよってたかっておとしめられ罵倒され人間性まで否定され独善的と言われること(いえ、私がそうされたということではなく、そうされる人を見ていての話)。
 しかしその「面白ければなんでもいいじゃないか、なんでそんな不愉快なことを偉そうに言うんだ」と声高にいう発想こそが独善的で自分「たち」の論理が無前提に正しいと思っている発想かなと。

 違う意見をいう「こと」が、というよりも意見を言う「人」が意見を言うということだけによって排除されないような社会になったらいいなあというのはまあ夢想にすぎませんが。

 当の発言の内容(やその影響)について冷静にその是非を言えばいいのであって、いきなり相手の人間性に踏み込んで言及したり評価を加えたりするのはやはりおかしいと思う。なぜなら、何かものをいう際には自分の人格がどのように相手に映るかということを極度に配慮しなければならなくなり、結果として誰もものを言わなくなるから。
 コミュニケーションが原始的な感情についてのうなずき合いに終始するなら(もちろんそのようないわば毛づくろいも重要なのだけれど)、インターネットの効用もきわめて限定的なものにとどまってしまう気がする。

 書きながら「圏外からのひとこと」のessaさんの一連の問題意識や語り口などが少し念頭にありましたが、この自分の記事を読み返してそれほど似ているとも思えず、また「圏外からのひとこと」のレベルにももちろん達しているわけでもありませんのでアシカラズ。