参院選の総括をラジオで聞いていて刮目。憲法改正ライン3分の2を争点とするのが誤り、民進党内部の改憲派をいれればとっくに3分の2をこえていた。護憲を掲げて戦うのではなく、政策で戦うべきだったと。
もうひとつ、護憲派こそが最大の解釈改憲をしている。9条があるなかでの自衛隊の位置付けが解釈改憲でなくてなんであろう。米国の保護とそれに伴う沖縄の多大な負担とを無視して戦力不保持を謳うのは浅薄ではないか、とのこと。
最近よく思うのは、同じようなことをやっているようでいて全く別の方向に作用していることがあるということ。ここではやはり原発事故後のことが思い出される。事故そのものを無かったことにすることと、復興して普通の生活をできるようにすることのような、一見微妙だが明らかな差異が、人によっては同じに見える、いや同じに見ようとする。震災によって明らかになったのは、同じものを見て同じようなことを言っているようでいて、実は全く違うことを言っているというような不全感であった。そうした差異は震災から五年、自分のなかでより強く感じられるようになった。

サイケデリック武勇伝リターンズという本に、何人か知り合いが寄稿していたので買ってきて読んだ。大柴陽介さんという人の追悼本で、その本人とは何の面識もないのだけれど、そういえば自分が若い頃に空想していた高円寺というものの雑多な魅力を体現したような人だったのかなと思う。しかしこれを震災後の、不全感のあらわな世界に残された自分が読むと、その当時のその場がより輝いて見える。
しかし結局のところニヒリズムに陥りそうな状況におかれている我々には、それを見ないふりをして幸福であろうとするか、孤絶を厭わない精神へと向かうか、それくらいしかないのではないか。