文体

日本人に生まれてよかったこと。
それは日本の作家の書いた文章をその作家が書いたそのままの文体で読めること。
昨日の続きみたいな感じになりますね。
私、パット3人の作家の名前が浮かびます。


1人目。
なにはともあれ太宰治さん。
太宰さんの書いている文章って、直接私に向かって語りかけている感じ。
なんか、太宰さんと二人で向かい合ってる感じ。
太宰ワールドに、引き込まれている感じがします。
そして、文章のどこを見ても、普通な感じを受ける、
きっと太宰さんなりの工夫があるのでしょうが、その作為をまったっく感じさせないところが凄い。
きっと海外で翻訳している方も、そのまま翻訳したら良いのではないか。
そう思える。
そこが、とっても凄いと思う。


2人目
庄司薫さん。
庄司薫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%8F%B8%E8%96%AB
庄司さん、文壇デビュー時は、
福田庄司。

喪失 (1970年)

喪失 (1970年)

この本短編集ですが、タイトルの喪失書かれたのは、1958年
この作品普通の文体で書かれています。
その後沈黙して、
復活作品が、芥川賞受賞作の「赤頭巾ちゃん気をつけて」1969年
赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

この小説、昨日も出てきた、サリンジャーさんの「ライ麦畑でつかまえて」との類似性を指摘されました。
それで私、ライ麦畑と出会うことが出来たわけです。
この文体高校生の時に読んではまりました。
結局、薫君が主人公の小説全4作書いて、
1969年
さよなら快傑黒頭巾 (中公文庫)

さよなら快傑黒頭巾 (中公文庫)

1971年
白鳥の歌なんか聞こえない (中公文庫)

白鳥の歌なんか聞こえない (中公文庫)

1977年
ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

以後小説書いていません。
そこもサリンジャーさんと似ているのですが。
とにかく、会話口調の個性的な文体。
だから、翻訳するとき工夫がいるだろうなって思えます。
私、たまに(○○○)なんて()付きの文章書いていますが、
これ、庄司さんの影響。
それ以前はそういう書き方していませんでした。


3人目。
もう書かなくてもわかりますね。
村上春樹さん。
たぶん、村上さんの文章も翻訳するとき、工夫がいるだろうと思えます。
とにかく村上さんそんなに評価していないでしょうが、
デビュー作の「風の歌を聴け

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

あの、文体で書いていること、それだけですばらしいと思います。


太宰さん、後のお2人より私の評価の高いところは、読んでいて、そういった文体を意識させない。
そこが、凄いと思います。



今日で、年内の仕事は終了予定。
でも、問題が1つ。
バイクのバッテリーが上がってしまって、
たまたま、家から1番近いバイク屋がシャッターは下りていたのですが、
明かりがついていたので、PM9時ごろ無理やり預けてきています。
相手の希望は、午後に取りに来て。
だったのですが、無理やり頼んで、AM10:30にしてもらいました。
それでも、朝から出遅れです。
でこの時間起きていますが、AM1:23分。
もう寝ます。