今日のtwitter

10:58 食べ物の写真を撮ると適当にカロリーと栄養価を計算してくれるソフトウェアが欲しい。誤差が15%くらいで十分。写真をとるのに意志を使うのは面倒なので首からぶら下げていて食事がカメラの視界に入ると自動的に撮ってほしい。データを全部まとめて期待損失余命の増減も計算して欲しい。
11:00 書き出してみるとこれは奴隷の要望だな。奴隷向けのソフトウェアと帝王向けのソフトウェアの違いをもっと意識しても良いかもなあ。
11:49 語り尽くされているのだろうが、なんでアイドルマスターファンの母集団にはあんなに技術力が豊富な人材が揃ってるんだろうか謎だ。単に年齢層の問題なのか。
00:57 いまさらながら未来日記のヒロイン凄いな。虎眼先生を思い出した。

人類VS乱数

「悲劇は人間肯定の最高の形態だ」という台詞がある。ひょっとしたら一生忘れられない名台詞なのではないかと思う。私なりの理解をまとめる。「モデル」が未定義語。

  • 悲劇のおもしろさ

大抵の悲劇は、不運と悪意の連鎖によって不幸になる物語だ。こんな辛気臭いものがなぜおもしろいのか。それは運というモデル化できないものを人間に理解可能なモデル、つまり物語として無理やりまとめているという矛盾が人生そのものにすごく近く、様々な感情を呼び起こしやすいからだ。なぜか生まれなぜか死ぬという理解不能さとは万人が戦っている。万人にとって感情を呼び起こしやすいのだ。

がんばったのにだめだった、理由もないのに不幸に陥る、というのは、「なせばなる」「ああすればこうなる」「Y=αX+e」といったモデルではない。理解するというのをモデル化すると近似すると、悲劇はそうではないため極めて理解しづらい。解析できず、腑に落ちないし救われない。つまり理不尽をパッケージしたものが悲劇だ。

悲劇ではないお話、例えばシンデレラを考えてみると、幸運が介在してなんらかの社会的勝利を掴むお話だと考えられる。ここでの幸運はシンデレラがたまたま美しく生まれたということだろう。しかしこれだと「美しさは希少な価値であり、権力者あるいは富裕層に優先的に配分される」というモデルと合致しており、物語がモデル化されてしまう。モデル化できるものでモデルを作って勝ったお話だと、その勝利は人間よりもモデルに属するので、主人公の人間力は試されない。

それに比べ、モデル化できない不運さに直面した悲劇の主人公は、人間力を用いてじたばたと色々なやり方で戦う。大抵は敗北する。しかしその敗北は万人が普段から行い考えていることを濃縮したものだ。感情移入しやすいし、人間力の試され方、使い方を見て姿勢を正すことができる。

こういうことを陰に陽に考え、数千年前から悲劇を作ってきたご先祖様はすごい。まさに悲劇であり人間肯定の最高の形態だと思う。

派生して考えたこともまとめておく。

  • 社会には目的はない。組織の構成人員が増えるにしたがって、組織の力が強くなるのにしたがって、どんどん個人と組織の行動原理は乖離する。目的はあいまいになる。一番大きい組織である社会には目的がない。目的がないと困るので、たいていの社会には不幸を減らす、真理を開拓する、人類を進歩させる、という題目がある。しかしこれは社会の目的ではなくて、制約条件と考えるべきだ。「利益が企業にとって目的ではなく制約条件である」。
  • 老人になるともろもろの割引現在価値が計測不能になる。成長とか異性がギャグに過ぎなくなったとき、人間は一体どんな風に考えてどんな断末魔をあげるだろうか。人事ではないのでぜひ知りたいが、この断末魔は若い者に語っても絶対に共感を得られないだろうから、よほど仲良くないと大抵の年よりは語ってくれない。

オネーギンとタチヤナ

mozaicから再録。小林秀雄の「政治と文学」という講演録にある。考えるヒント2か3に収録されていたはず。ある種の人間の運命をおぞましいくらい的確に描写しているように見える。

.. この本に、「プウシキン論」が載っている。(中略)

.. この講演の中心点は、プウシキンの「オネーギン」という恋愛悲劇の分析にあるのですが、ドストエフスキイの考えによれば、「オネーギン」は寧ろ「タチヤナ」と題すべき作で、オネーギンという教養ある複雑な人物より、タチヤナという単純な田舎娘の法が、実はよほど高級な本当の意味で聡明な人間だという洞察に、プウシキンの天才があるという。
.. 成る程オネーギンは聡明でもあるし、誠実でもある、自ら「世界苦の受難者」を以って任じている。しかしこういう「世界苦の受難者」の心にひそむ「下司根性」を見抜くには、現代ロシアに沢山いるオネーギンたちのいわゆる鋭い観察などでは到底駄目である、それにはまったく別な何かがいる、その別の何かをタチヤナの眼が持っている、「オネーギン」という作はそういう認識の悲劇であるとドストエフスキイは見るのであります。

.. タチヤナは都会からやってきたオネーギンに恋をする。オネーギンはこの臆病な小娘に何の関心も無い。彼女は絶望し、やがて母親のために愛の無い結婚をし、貴婦人として都会の社交界に現れる。今度はオネーギンのほうが恋をする番だが、彼女は拒絶する。タチヤナは依然としてオネーギンを愛しているが、貞操を破ることは出来ないといって男を拒絶する。何故大胆に一歩を踏み出せなかったのか。

.. ドストエフスキイは、そうではない、タチヤナは大胆なのだ、ロシアの女はみな大胆なのだ、問題は、多くの批評家が論じたような恋愛と道徳の相克などには無いのだ、というのです。成る程彼女は古めかしい道徳をはっきりと口にし、それを信じてもいる、が、彼女の心の奥のほうにはもっと違ったものがある。当節の批評家は、彼女自身気のつかない高慢心がある、上流社会の腐った生活に感染した気位の高さがある、そんなことを言うが、浅薄な意見で、プウシキンの思想を誤解するものである。

.. タチヤナは変わってはいない、汚れてはいない、不幸によって練磨された毅然たる人間になっているのである。恋愛に絶望した小娘の心に、すでに、「あの人はただのパロディーではないか知らん」という疑問が生れていることに注意し給え。このささやかな疑問をドストエフスキイは「道徳的胚子」と呼んでいるが、この疑問が、女の絶望的な愛の中で終にはっきりした認識に育ち、彼女は自信あるしっかりした女性となる、と彼は考えるのです。たとえ独身でいたとしても、タチヤナはオネーギンと一緒にならなかっただろう。この人には愛というものが不可能だと見抜いた人間と一緒になることは出来ない。女の心には軽蔑の念などひとかけらも無い、ただ悲しみがある、悲劇がそういう次第のものであれば、作者は理屈を言わず、女主人公を美の典型として描く他はなかったろう。そして美は肯定的なものである。オネーギンの不幸は、実は空想家でありながら、自分はリアリストであると信じているところである。オネーギンは、タチヤナという一個の人間を決して見たことはなかった。頭脳を知的憂愁で充たしているこの男が出会ったのは、女ではない。「憂愁の逃げ道」なのである。逃げ道のすばらしさに感動している。ということは、彼を動かしているのは、実は社交界というつまらぬ環境に過ぎないということである。一見極めて内的に見えるこの憂鬱な人間が、およそ無邪気な環境の犠牲者であることに気がついていない。この不幸なパロディーが、プウシキンによって看破されている。