結婚式

大学時代のバンドの後輩且つ会社の後輩というか友人(付き合いが長いのでもう歳なんてどうでもよくなってきている)の結婚式&披露宴に行ってきた。というか式には大遅刻して集合写真になんとか間に合っただけ。どうもすみません。ニュートラルが悪いんです。
新婦も同じ会社の人なので披露宴ではバンドの後輩と会社の人とがごっちゃになって、新郎を除けば僕だけが両方知っている立場になってとても不思議な気分。昔は毎日会ってた久しぶりに会う人達と今毎日会ってる人達がたまたま今日仲良く会話しているのを眺めるのは一種言いようのない不思議さ。仲良きことは美しき哉
いやでもみんなが幸せでにこにこしていて天気も良くて、人生捨てたもんじゃないと今日は思いましたよ本当に。まだ捨ててないし当分捨てる気もないけど。こういう良いことはたまにあると本当に嬉しくなる。おめでとう&お幸せに。
ちなみにご祝儀の内袋に「金○万円也」と書くべきところ、「金○万円」と書いてしまったのは内緒です。面倒なのでそのまま出しちゃいました。他って何だとかつっこまないように>新郎。

僕とみんなと僕の考えるみんな

テレビも新聞も雑誌もロクに見ないので、実は多数派とかみんなってのがよくわからんのです。どっかにいるんだろうな、って感じで。チベットかどっかの雪男みたいな感じ。わはは。
僕は自分が正しいと思っていることは正しいと思っていて、よくわからんと思っていることはよくわからんと思っていて、でどっちにしろその見解は現時点のもので将来変わりうるのが前提と思っている。
だから自分の考えなり意見なりが多数派なのか少数派なのか、ってのはどうでもいいというか、ちゃんと考えたことがない。まあ少ないんだろうなあとは漠然と思ってるけどもしかしたら多いのかもしれない。普通でまともなのは常に自分なんですけど。わはは。
というかそもそも他の人に関心がないみたい。つまり関心があるのは自分だけ。だから「みんな」の考えてることはわからんし興味もないと。しかしこれは鶏卵問題かもしれなくて、そもそも考えてもわからんので興味がなくなったのかもしれない、と考えると奥が深い。かもしれない。どうかな。どうすか。
それはともかく僕の考える「みんな」と、いわゆる「みんな」(って、みんなって、あんたと、あと誰?)は往々にして全然違ったりしてて興味深い。そういうときは一応自分の中の「みんな」といわゆる「みんな」を擦り合わせてキャリブレーションしてみたりするんだけど、毎回基準が違うみたいで結局ブレの無いちゃんとしたモデルを作ることができなかったりする。為替の動きみたいなもんだ。毎日テレビ見ないとダメかな。
ということでみんなとか多数派とかってのはよくわからんので、そっち側にいたいって発想がよくわからん、ってお話でした。だってそんなよくわからん、自分のコントロールのきかないところに立脚点を置いたらぐらぐらしてあぶなっかしいじゃないですか。ってそうかみんなあぶなっかしいのが好きなのか。やっぱりわからんなあ。わはは。

自分の日記で「みんな」を検索してみたよ

修飾的用法ではなく(例:「いくら馬鹿馬鹿しいことでもみんながそれを信じていれば」)、話題になっている限定的用法(例:「どうしてみんなトレードオフの概念を理解しないんだろうか」)で使われているところをざっと見てみると、どうやらとても怒っているときに書かれたものだということがわかった。
これってやっぱり自分の中の「みんな」に怒ってるんだよなあ。何やってんだ僕は。わはは。
ちなみに修飾的用法とか限定的用法とかはオレ定義なのでご注意。一応、前者は「全員」とか「世界中」で置き換えても意味が変わらないのに対し、後者は微妙に意味が変わってしまう、という定義をしてみました。思いつきなのでrefineするなり罵倒するなり好きにして下さい。