『ゴースト・ハント』

今度、上記の“累ノ怪”でご一緒させていただく東雅夫氏が薦めていたので、H・R・ウェイクフィールドの『ゴースト・ハント』を読んでみた。

ゴースト・ハント (創元推理文庫)

ゴースト・ハント (創元推理文庫)

この間まで、新聞やテレビはロンドン・オリンピックの話題で持ちきりだったが、スポーツ音痴の私にとって英国と言えば幽霊屋敷である。日本のお化け屋敷とはちょっと違う。日本のお化け屋敷の主役が妖怪であるのに対して、英国では幽霊が出迎えてくれる。古い邸宅に引っ越してきた新来の住人をいにしえからの住人(幽霊)がおびやかす、こういう話はイギリス人の大好物であるらしく、H・ジェイムズ『ねじの回転』をはじめ、これをテーマにした小説も数多い。ピーター・アンダーウッド著、南条竹則訳『英国幽霊案内 (幽BOOKS)』なんていう本まである。本書は、この幽霊屋敷物を得意とした作家ウェイクフィールドの傑作集である。十八篇の怪奇小説が収録されているが、約半分が幽霊屋敷を舞台にしたゴースト・ストーリーだ。
初めて読む作家、特に日本ではあまり知られていない海外の作家の本は、つい解説から先に読むという人が多いらしい。本書にも巻末に鈴木克昌氏による「最後のゴースト・ストーリー作家」と題された訳者解説が掲載されており、ウェイクフィールドの経歴や作家活動について知ることができる。しかし、この解説を読むのは、せめて巻頭の「赤い館」を読んでからにした方がいい。幽霊屋敷物の傑作である。そして、できれば表題作の「ゴースト・ハント」も読んでみてほしい。ラジオ放送のリポーターが幽霊屋敷から生中継するという趣向のショート・ショートだが、その語りの巧さに舌を巻くことだろう。他の作品もぜひ楽しんでもらいたいが、最低でもこの二作を読んでから訳者解説を読めば、この原作者の描く幽霊屋敷がどういうわけでこれほど真に迫っているのかがよくわかるとともに、あらためて背筋がぞっとするはずだ。
以下、ネタばれと感じる人もいるかもしれないのでご注意。
本書巻末の鈴木克昌氏執筆の解説「最後のゴースト・ストーリー作家」には、ウェイクフィールドのエッセイ「さらばゴースト・ストーリー!」から、彼が出世作「赤い館」を書くに至った経緯が紹介されている。これが私の関心を強くひいた。
「赤い館」の舞台にはモデルがあった。そして、その家でウェイクフィールド自身が奇妙な体験をしたのだそうだ。以下、孫引きで恐縮だが鈴木氏の訳文から要点を抜粋する

私自身が〔この家で〕特別に悩まされたのは頑固な不眠症だった。名状し難い恐怖に胸苦しさを覚え、明け方まで横になったままで一睡もできないのだ。お望みならたかが幽霊くらいでと言うがいい。私は自分を臆病で情けない人間だと感じた。だが、文字通り恐怖心で瞬きひとつできなかったのだ。この気持ちは似たような経験をした人にしか判っていただけないだろう。視覚で悩まされたのは一回だけだった。ある日の午後、庭の桑の木の下に腰を降ろしていて、たまたま二階の窓をちらりと見上げたときのことだ。窓のひとつに顔がぼーっと浮かんでいた。それは男の顔だったが、家の中に男はいないのだった。私はこの家を題材にして最初の小説を書き上げ、「赤い館」と名づけた。

「この気持ちは似たような経験をした人にしか判っていただけないだろう」と言うのには、まったく共感する。
怪談好きで、たまには怪談について書くこともあると明かすと、時折「視える人なんですか」というような質問をいただくこともある。「違います」と私は答える。質問者の「視える人」というのは、いわゆる「霊感のある人」のことで、このたぐいの人はしばしば奇妙な感覚を経験するらしい。私の知りあった何人かは、日常茶飯事になってしまって怖いとも思わなくなったという。これにくらべると私などは、ごくたまに(何年かに一回くらい)奇妙な体験をして、びっくり仰天して腰を抜かすという程度のうっかり者である。
しかも私はそれを幻であると考えている。幻というのは、それが錯覚や夢であることを意味するのではなく、対象に物質的実体がないのだからそういうカテゴリーを当てはめるほかはないからだ。
幻であっても、不意にいるはずのない人が現れたりすれば驚くし、怖い。小説家のような文才があれば、これを表現できるかもしれないが、私はいまだにそれができないままでいる。