堕落論
UN-GO がおもしろかった *1 ので wikipedia:坂口安吾 の作品を読んでみた。
坂口安吾という作家を、私は全然知らなかったので、少し調べると「堕落論」や「白痴」といった作品が有名らしい。UN-GO の台詞にも引用されているようなので「堕落論」を読んでみた。坂口安吾の作品は 青空文庫 で読むこともできる。
文学作品
一言で、むずかしい。。。
これまで学校で習うようなもの以外に文学作品を自分で好んで読んだことがあったかどうか記憶にない。そんな自分でも何かしらの興味があって、縁があって、読むことができた。戦前・戦時中・戦後といった時代背景があるので、いまの自分が読んでも解釈できないこともありそうだけど、そうは言っても日本語なので読むには読めた *2 。
文学作品って、思想や哲学、論理、倫理 (?) も含めたものなのかと改めて思い知った。
ものごとに満足しているときの文学作品ってつまらないものかもしれない。足りないものがあって、その足りない何かがうまく表現できなくて、でも何かを知りたくて、探してみたくて、そんなときに先人の知識や知恵がヒントになる。
ものごとは見えるものよりも、見えないものの方が本質的には価値がある (傾向にあると思う) 。経験を積むことで自然に見えないものが見えるようになることもあるけど、考えること、考え続けることで見えないものを表現しようとする試みが作家の書く文学作品なのかなと思った。いずれにしても自分とは対極にあるもので、私には難解過ぎてよく分からない。
堕落論
戦後という時代背景を含めた「堕落」という言葉の解釈は変わるのかもしれないけど、まさにそのまま現代でも堕落という言葉は分かりやすい表現だと私は思う。
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
坂口安吾 堕落論
UN-GO でも引用されていたお気に入りの一節だ。
堕落そのものが良い言葉ではないし、行為そのものが良いことでもないけれど、堕落しない人間なんていない。堕落論で述べる「堕落」というのは欺瞞を露にすることや本質的な在り方を肯定することであって、おそらくは本当の意味の堕落ではない。でも、現代の感覚で堕落したとしても大したことではないし、堕ちきったところでたかが知れてる。堕落したところで人間は死なないし、堕落を自覚することで救いが得られるというのは、戦後も現代も同じだと、人間はそう簡単に変わらないということからも伺える。
終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。
坂口安吾 堕落論
何かをすることは、自分の前にレールを敷いて、ルールを定め、ゴールを目指すことになる。選択は自由だけど、選択した後は自由ではない。行き着くところ、それは人間の生き死にと思考によるものだというのは、分かるような分からないような論理だ。
表面的には自由だと言いながら、実際的には選択肢は少ないものだというのが現実の世の中だと思う。選択肢を創ることが自由の在り方の1つだとして、それも選択肢がない世の中での選択肢の1つだと考えたら、自分に対しての世の中との関係性において自由と不自由が交錯するのかな。やはりよく分からない。
続堕落論
全体としては、堕落論の補足的な内容でパッとしない印象もあるけど、所々に力強い言葉もある。文庫本を読んでいて、そういった坂口安吾の荒々しさが後世の作品につれてなくなっていった気がする。まるくなったのか、時代が変わったのか、1946-1948年頃の作品とその後の作品は違和感を感じた。
我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。
坂口安吾 続堕落論
堕落の救いとして、人は堕ち続けられるほど強い精神をもっていない。堕ちきった後で這い上がりたくなるし、それ以上堕ちることがないのだから良くなるしかない。ものごとが良くなることも悪くなることも、本当に少しずつでしかない。
勘違いしてはいけないのが、一気に良くなることがないのは大抵の人が知っている。同じように一気に悪くなることもないけれど、少しずつ悪くなっていることに気付かないことが往々にしてある。その兆候を意識的か無意識的かはともかく、自覚することが生存や危機回避に重要だ。そして嘘つきが最も厄介で危険な気がする。悪くなる雰囲気を、何度か堕ちてしまって、結果をみてみるのも、楽しめる余裕があればそう悪いものではない。
日本文化私観
文庫本にあった他の作品の中で特に (私にとって) おもしろかった。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。
坂口安吾 日本文化私観
「ブログは何のために書くか?」と問われれば、色んな答えがあるだろう。どれも正しいのだろうけれど、そうか、こんな意味もありそうだという発見だった。
私がブログを書くのは、学習目的に書くときもあるし、記録として書くときもあるし、だらだら書くときもある。その全てにおいて、お気に入りの文章もあればそうでないのもある。自身の経験の中でも、何かを狙って書く文章というのはつまらないものになりがちだ。下書きのまま放置して、賞味期限が過ぎて削除した散文も多々ある。ブログを書き殴る中でのお気に入りを創作したり、楽しんだりしているところもある。
そうね、必要に応じて書いた文章って力強い。
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*2:坂口安吾 FARCE に就て だけは分からなかったが、、、