「おかしいですよね」で語れなかったことについて

id:rnaさん*1から、再度応答をいただいた*2

この一連のやり取りに関する印象をまず述べると、「どうもうまくないな」、と感じている。それはどういうことかと言えば、なんばさんが「書いたはずの事が読みとられていない」とおっしゃられているのと同様に、それに近いことを、僕もまた感じているからだ。とは言え、言葉足らずから来る誤解や、語りつくせなかったことについての説明責任は、まず第一に私自身にあるはずで、言ったことを言っていないことにしたり、言っていないことを言っているはずだと主張してみたりしたところで、相手の同意を得られるとは思えない。ましてや、それを相手の読解力の無さのせいにするのは、あまり趣味の良いやり方ではないと感じている。なので、これらの事柄に関して思うところを、もう少し掘り下げて述べていこうと思う。

ところでまず最初に、おそらく誤解されているであろうことに触れなくてはならない。なんばさんはもしかしたら、このように思っているのかもしれない(違ったらすみません)。t_keiは「言葉足らずだったブクマコメントを誤解して、いつまでもその印象を引きずって主張をし続けている」のではないか、と。しかしおかしいですよね (2) - 諸悪莫作でも述べたように、あのブクマコメントの表現に関しては、僕の主張の本質とはあまり関係がない。

そもそもの経緯を説明するなら、当初、あのブクマコメントを読んだときの印象は「なんだかなぁ」といった程度のものだった。なんばさんの本来の意図はともかくとして、あのコメントの文面からそのままで読み取れる内容は、ネット上に腐るほどある差別的言辞とあまり大差が無いものであったから、ことさら個別に取り上げるべきものだとは思わなかった。しかし、http://d.hatena.ne.jp/demian/20070206/p2のコメント欄を読んだとき、僕はそこに展開されている主張に強い違和感を抱き、あのように表明するに至ったのだった。

今回新たに応答いただいた内容を加味しつつ、なんばさんの主張を忖度すると、こういったことになるだろう。「野宿生活者は実際に不潔であったり、軽犯罪法すれすれの生活をしているわけで、そこに偏見が生じること自体はおかしなことではない」。しかしこのような論法を採用するなら、なんばさんは同時に、たとえばこのようにも主張しなければならない。「在日の法的位置づけは曖昧で、また、その曖昧な位置づけを利用して犯罪をおこなっている集団も現実に存在する。さらに、北朝鮮も拉致やミサイルなど、現実の脅威として存在する。だから、在日に対して怖いという印象を抱いたり、偏見が生じること自体はおかしなことではない」(もちろんこのような主張は馬鹿げたものです)。

なんばさんは今回の応答で「だから「アメリカ人」に置き換えられません。最初のステップが成り立たないので」とおっしゃっているが、しかし、この手の論法を使えばいくらでも置き換えが可能となる*3。もちろん差別や偏見に至る個別的な状況はまったく多様で、それ自体は置換可能ではない。ところが、そのための理由をいくらでも「発見」できるという意味では、正当化や居直りに至る論法のパターンは、完全に置換可能なものとなる(最初に「他のマイノリティに置き換えてみたら」と述べたのはそのためです)。そしてもちろんそれらは、差別を強化するに至った理由の説明ぐらいにはなったとしても、差別を正当化するための理由になどはならない。

(ここで、そもそもの前提としてあるはずの、重要な論点について記述していないことに気がついたので追記します。)
そして、そもそも今回焦点となっている「怖い」という感情は、果して自明なものとして扱えるのか、という点に触れる必要があるだろう。確かに「怖い」という感情の生理的・突発的な発露は避け難い。また、人はある側面で、自身の情動をそれほどにはコントロールできないものだと言える。しかしそのことと、そのような情動が固定化し、特定の社会階層に投げかけられ続けるということとの間には、深い断絶がある。そして、にもかかわらず、それらが結びつけられ正当化されるということは、論理的な飛躍だと言われなければならないだろう。生活資源を絶たれ、孤独のうちに過ごしている人びとに対して、「怖い」という感情が投げかけられ続けるということがいったい何を意味するのか、僕たちは考える必要がある。
(以上、2007年2月12日追記)

だから、なんばさんがなされたように個別的な状況を分析し効率の面からアプローチすることも当然重要ではあるけれど、しかしそれ以前の段階として「なぜ我々は特定の社会階層に対して、ある種の不浄観を投げかけてしまうのか、なぜそれを正当化してしまうのか」について考察し、それを指摘しつづけることは --- なんばさんは「期待できない」とおっしゃいますが --- 知的に誠実であるならば、避けることができないことだと私には思える。ましてや、そのような「野宿生活者観」がこの排除を正当化する一助となっているならば、なおさらだと言える。実際、なんばさんは野宿生活者に対して「反社会的・脱社会的」という言葉を付与しているけれど、そういった属性を付与するとき、すでにそのような罠にはまっているのだと感じる。(そのような意図はないと言うのであれば、そもそも、「反社会的・脱社会的」とはどのような意味なのか、その説明をなんばさんはしなければならない。)

また、「非対称性」というものをどう捉えるのか、という点でもなんばさんの主張には疑問が残る。なんばさんは「別の弱い立場の人(ここでは女性)からすれば」そのような偏見が生じるのはしょうがない、とおっしゃっている。しかし、現実に排除がおこなわれている状況で、テレビの全国放送でそのように発言をする、それは果して「弱者」と言えるのだろうか。もしくは、仮に弱者であったとして、その状況を切り取ってみたとき、その立場は対称と言えるのだろうか。私は、その手の主張はまったくナンセンスだ、と言いたくなる。

そして、なんばさんの「小狡い行政と騙される一般大衆」とでも言うべき社会観についても触れておかなければならない。たとえばなんばさんは「行政の関係者はともかくとして、世間一般の人は正当化してるんじゃなくてごまかされているのでは」とか、「そういうことのプロであるところの行政がそのまま受け入れるのは怠慢」だとか、「行政がノーチェックで市民の言うがままだとしても」だとか、「他者に対する想像力なんてのは「普通はない」を前提に制度を作るのが基本でしょ」といった主張を多用されている。もちろんその主張はある一面においては妥当ではあるけれど、しかしこの言葉の使われ方は、民主制度の社会というものの意義を考える時、とても奇妙なものだと感じる。

そのような主張は、市民の主体的な選択とは無関係に執政をおこなうプロとしての行政が存在する、という仮定を置かなければできない。もしくは、市民の主体的な制度選択を経ることなしに、行政の施行が独立して存在し、その結果として社会は誘導可能である、とみなしているということになる。僕は、こういった社会観と、苦情件数が少なかったにもかかわらず行政が排除を強行できた状況とは、強い関連性があるのだと言いたい*4。結局のところ、市民の側がその努力を放棄しない限り、究極的には私たちの主体的な選択と無縁に、行政が独立して何かを為すことはできない。それは地続きのものであると言える。

そうであるから、僕たちの社会の中で野宿生活者に対してどのような観念を与えているのかは極めて重要なこととなるし、そのような意味において「野宿生活者は怖い」という観念と、今回の排除が実行され許容されてしまうという状況は、無縁ではないと言える。ところで、ここで言われている「怖い」という情動について厳密に述べるなら、それは字義通りの意味での「怖い」という感情のみを意味しない。人の情動とは、単独の感情がバラバラに存在するわけではなく、様々な観念やイメージの連合として形成されている、と言ってもいいだろう(つまり、本来的な意味での「コンプレックス」)。そのため、「怖い」という情動の存在は同時に、「不潔」であったり「怠惰」であったり「人間的生からの逸脱」であったりといった、ある種の不浄観が野宿生活者に対して付与されているということを意味する。

そして、先ほど指摘した「小狡い行政と騙される一般大衆」といった社会観と、そのような情動とは無縁ではない。僕たちひとりひとりが社会から切り離された無力な存在であるという無意識的な自己規定は、私たちを非個性的な存在へと貶める。しかしだからといって、そのことによって抑圧された情動が消えるわけではない。だからその行き場を失った情動が、ホームレスは良いご身分だねえ - 猿゛虎゛日記(ざるどらにっき)で指摘されているような形で噴出することは、ある意味では必然であるように思えるし、そのこととこの排除とは無縁ではない、ということになる。

(ブクマコメントなどを読んでいて、誤解を招きかねない書き方をしてしまったと気付いたので、ここに追記します。)
私としては、「怖い」という感情を抱くことや少なからず偏見を抱いてしまうことに対して、それは差別だから糾弾されるべきだ、だとか、それは邪悪なものだ、だとか主張したいわけではない。ただ少なくとも言えることは、まず、知的に誠実であるならば、そのような感情が固定化され、特定の社会階層に投げかけられ続けることを正当化する論法は採用できないはずだ、ということだ。結局のところ、そういった感情とその発露を単に「しょうがない」と言えるということは、僕たちが被差別者ではないということを証明しているに過ぎない。そして何より僕は、野宿生活者が社会的な支援を受けることなく居住空間から排除されたという事実は、僕たちの多くが日々抱えている孤独感や鬱屈感とも無関係ではないと考える。その事実は、今の僕たちの社会の在り様をはっきりと照射し、写し出してもいる。
(以上、2007年2月12日追記)


話がやや散漫になってしまったけれど、最後に、蛇足ではあるが触れておきたいことがある。

私たちの社会において大勢を占める「野宿生活者は怖い」という感情と、現実に野宿生活者が置かれている状況、そして、今回の排除。それらに関連がないと言うならば、それは奇妙なことだと言わざるを得ない。そのような事態を招来し、そして許容してしまう、その状況と、この感情とが無関係だとはたして言えるのだろうか。

おかしいですよね (2) (諸悪莫作)

議論をしたいのなら疑問形(反語)でなくて「こういう理由でこういう関係がある」と言って欲しいです。僕は「専ら怖さとは別の理由(自己責任主義)で排除が許容されている」という話をしたのですから。

この指摘にはとても驚いた、ということを素直に告白しなればならない。と言うのも、今回の一連のやり取りは、お互い特に実証的なデータを示しているわけでもなく、それぞれの考えるところを述べているわけなのだから、僕が「怖いという感情と排除が許容されている事実は無関係だと言えるのか(いや、言えない)」と述べるのと、なんばさんが「専ら怖さとは別の理由(自己責任主義)で排除が許容されている」と述べるのとは、他者による審問はあるにせよ、基本的には等価であると考えているからだ。ところがなんばさんは、反語を使っているから一段落ちる、とおっしゃっているようだ。私にとって、反語にそのような効果があるという指摘は初耳だった。先の「人に危害を加える」の使い方と併せて、このようななんばさんと僕の言語感覚のずれが、今回のやり取りを不毛なものにしている一つの原因となっているように思えている。このようなこともあるのだな、という意味ではとても勉強になったけれど、やはりとても残念なことだと感じている。

*1:以下、id表記は面倒なので「なんばさん」とお呼びします

*2:Re: おかしいですよね (2) - rna fragments

*3:もちろんある意味ではなんばさんの言う通りで、「アメリカ人」という属性は、このような論法の対象には現実的にはなりにくいでしょう。だから前回、私たちはそのような話はしない、と書いた訳です。そして「それはなぜか」ということを考える必要があると思います。

*4:同様の主張(と言ったら、僕の主張は圧倒的に稚拙なので叱られるかもしれませんが)を「研幾堂の日記」の山下さんが常々されています。たとえば、http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20070116など