ライブドア事件と村上ファンド事件の底流

今回の検察の捜査の背景にある国策が、小泉政権の「小さな政府」の流れを否定し、明治以来の「官治国家」に引き戻す国家意志にあるというのは、うがちすぎだろうか。

と言うか、そうとしか見えないんだけど…
「官治国家」というか「経済が社会に埋め込められた非近代国家」というか、その思想自体を頭から否定するわけではない。
ただ、どうしても疑問に思わざるをえないことが二つある。
一つは「官治国家」というか「経済が社会に埋め込められた非近代国家」というか知らないが、そういう非市場経済的なやり方ではもううまくいかないのではないかということ。こういう古くさいスタイルの国が、肉食獣的な市場経済国家に太刀打ちできないことは、旧ソ連の崩壊を見ても、もはや明白なのではないか? その点、中国人の方が賢いような気がする。
二つめは「官治国家」への方向転換を図るために取られた「手段の正当性」の問題だ。法の恣意的な運用やダブル・スタンダードを何とも思わないらしい検察当局の態度には寒けを覚える。所謂「デュー・プロセス」を欠いたまま権力が剥き出しで行使される社会はとても近代的な文明社会であるとは思えない。結局、明治以降の日本の近代化は表層だけの擬態であり、その本質は相も変わらぬ「土人の共同体社会」なのではあるまいか? 事実として、近代国家的な国家の強権は確かに存在しているのに、それに対する近代国家的な歯止めがない。流行の白州次郎風にいえば「プリンシパル」がない。早い話が「何でもあり」の社会なのだ。こんな社会はちょっとしたきっかけで全体主義へと走って行きそうなので恐ろしい。


もう政治経済社会のことは書かないという前言は撤回する。あんなふうに放り出してしまうことはよくない。言いたいことは言っておかないと、精神的によくない。ただし、出来るだけ感情的にならないようにしたいけれども…